ファーストデート

 

 去年の初夏に起た巨神戦争の恐怖を、世界中の人間が味わったのはもう1年も前の事。
 流石にその事実を忘れてはいないが、前を向いて一所懸命に生きる為の復興作業があちこちで行われていた。それはダンナーベースに勤務していた人々も同じで、新しく出来たばかりの新生ダンナーベースに引っ越し、少しずつこの生活になじみ始めていた。
 そんな、ある日。
「動物園、ですか?」
 ベースの片隅にある霧子の自室に呼び出されたゴオは、あまり聞き慣れない単語を耳にして、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になってしまった。しばし思考を巡らして、改めて動物園という単語を頭の中で咀嚼して、思い出す。
 そんな彼を横目でちらりと見ながら、シガレットケースから煙草を一本取り出し、火をつけて紫煙を燻らせてから霧子はもう一度繰り返した。
「そう、動物園だ。内陸の方に一つあっただろう。そこに、うちの娘を連れて行ってほしいんだ」
「はぁ」
 博士の娘と言うと、あの子か……。
 間抜けな返事を返しつつ、ゴオは彼女と初めて会った一年前の出会い、そして後の再会シーンを思い出してとても憂鬱になった。
 そもそも、ゴオは彼女を助けた事は憶えているのだが、彼にとってあの日の記憶はミラがいなくなった事のみが鮮明に脳裏に焼き付いていて、彼女を助けた事を言われると大抵ミラを思いだしてしまうのだ。そして二度目に会った時は、ミラを亡くした悲しさや自分の不甲斐なさが情けなくて泣いていた時だった。人前では泣かないようにしていたのに、あの子にだけは見られてしまったのだ。
 そんな虚脱感と気恥ずかしさが同居した感情がまた胸に重くのしかかる。自分のこの心情をを上司である霧子は気づいているだろうに、あえて彼女と会わせようすることがゴオには理解できなかった。
 そんな心の葛藤が顔にも出ていたのだろうか。霧子が苦笑しつつ言い放った。
「なぁに、遊びに行きたがっている娘を一人では行かせられないから、ついていってほしいだけだ。頼めるのがゴオ、お前しかいなかったんだ。引き受けてくれないか」
 今まで散々世話になっている霧子の頼みをゴオが断れるはずもなく、彼は頷くことしか出来なかったのだった。


 そして、その当日。
 待ち合わせ場所であるベース裏口に現れた小さな少女は、ゴオを見るとはにかんだ笑顔を浮かべてそばに近づき、ぺこりと頭を下げた。ぴょこんと後ろで編んである髪の毛が跳ねる。
「おはようございます、猿渡さん。今日は宜しくお願い致します」
 その屈託のない挨拶が、何故かゴオの心少しを苛立たせる。けれどもそのささくれ立った部分を素早く隠して、ゴオは彼女にぎこちなく微笑んだ。
「おはよう、葵さん」
「杏奈でいいです。葵だとお母さんと一緒になっちゃうから」
 名字で呼んだらお母さんと一緒にいるみたいに思えて、困っちゃうんじゃないかなぁと思って。
 言いながらえへへと杏奈は舌を出して照れ笑いをする。
 瞬間、さっき苛立ちを覚えた理由をゴオは理解した。
 自分が彼女と出会ったときの事を思い出して少し憂鬱になっているのに対し、杏奈の方は全くその事を気にしていないようだからだと。
 自分の方がこどもみたいに意固地になっているという事実が面白くなかった。思わず顔を歪める。気づいた杏奈が不思議そうな顔をしてゴオを見た。
「何かあったんですか?」
 彼女の問いただす声に、ゴオはハッとなった。
「何でもないよ。うん。じゃあ、行こうか」
「はいっ!」
 ベース最寄り駅から動物園に向かう電車の中では、杏奈はずっとゴオに話しかけていて、ゴオはずっと聞き役に徹していた。彼女は良くしゃべった。春に入った芽花園学園中等部の授業の事、学校で起こった面白かった事、母親の事、飼っているネコの事──。ベースから目的地である動物園に着くまでのおよそ2時間近くを、ただひたすら話す事に夢中になっていた。よくそこまで話す事があるなぁと、むしろ感心してしまっていた。彼女のおしゃべりの真意に全く気がつかないまま。


 ゴオと杏奈が向かった動物園は、動物園を中心に周りに小さな遊園地、ショッピングモール、映画館などがひしめき合う、一つの娯楽スポットとなっていた。首都圏では巨神戦争の被害を免れた観光地の一つであった為、どんどん開けていった土地であった。休日とあって、それなりに混んでいた。
 とりあえず二人はまず最初の目的地である動物園に向かう事にした。
「私、実は動物園に来るのは初めてなんです。遊園地ならうちの近くにあったから何度か行った事があるんですけど。でも、動物園は遠くて一人じゃ行けなくて」
 初めて来た場所に興奮してはしゃいでいる杏奈の横で、ゴオはふと、昔を思い出した。そう言えば一度だけ、忍にせがまれて小さな動物園にミラと3人で行った時の事を。あの時はミラはヤギにスカートを食べられ、忍は飼育員から手渡ししてもらったモルモットを思わず落としてしまった。そして自分は何故か乗馬用のロバに好かれ、小さな動物園中を走り回った。
 ──そんな事、すっかり忘れていたな。
 ゴオは心の中で苦笑した。あの日ミラを失ってから、彼女を思い出さない日はなかったけれど、頭の中に繰り返し現れていたのはあの日、ミラが自らを賭して擬態獣に向かって行ったあの瞬間ばかりだった。彼女と過ごした思い出は何故か心の奥にしまい込まれていたのか、今の今まで思い出せなかった。
 久しぶりに思い出した過去は辛さを伴って現れて、それがとても心を打った。横に杏奈がいる事も忘れ、ゴオは顔を歪めて大きなため息をついていた。
 そんなどこかに心を置いてきてしまった感のあるゴオの姿を、杏奈は少し複雑な思いで見つめていた。
 実は、杏奈は動物園に行きたかった訳ではなかった。ただ、ゴオと二人でどこかに出かけたかった。その事を母に相談したら、『じゃあ、内陸の動物園の辺りにでもゴオを一緒に連れていけばいい。誘い出すのは母さんがするから』と言われたのだ。
 最初の出会いの時は全く判らなかった彼の事を、二度目の再会のあとに母から聞かされた。あの大戦の時に何かとてつもなく悲しい出来事に遭遇した事、そして、それから抜け出せずにずっと落ち込んでいる事を。
 だったらどこかに出かけて楽しい思いをしたら、少しでも気が晴れるのではないか、そう思ったのだ。こども騙しな考えだという事は重々承知していた。けれども、これが杏奈に考えられる最良の策だったのだ。
 けれども電車の中でも、動物園の中に入っても、ずっとゴオは黙ったまま。いや、今はため息をついて更に落ち込んでいるようにさえ見受けられた。
 私、何か悪い事しちゃったかしら……。
 杏奈は少しショックを受けた。足が重くなってしまい、その場に立ち止まってしまう。少し歩を進めたあとに杏奈が横にいない事に気づいたゴオがあわてて戻ってきて、彼女の前にしゃがみ込んだ。60cmほどの身長差が縮まり、目の前にゴオの顔を見る事になった。
「どうした、足でも痛めた?」
「う、ううん。ちょっと靴が脱げそうになっちゃったの。ごめんなさい」
 慌ててごまかしながら歩き出そうとする。すると目の前に大きな手を差し出された。
「迷子になるといけないから、ほら、手」
 こども扱いされた事に軽くふくれながらも、杏奈は彼の手を軽く握りしめた。暖かさが身体に伝わってくる。
 ……うん、私が落ち込んでちゃいけない。猿渡さんを元気づける為に今日ここに来たんだから、私は元気じゃなくちゃ!
「ありがとうございます。じゃあ、とりあえずクジャクがいる所に行きたいです。で、次はコアラの親子が見たいんです」
 そう言いながら、杏奈はゴオの手を引っ張って走り出した。


 一通り動物園の中を堪能した二人は、遅めの昼食をとる事になり、ショッピングモール内のレストランに入った。ぱらぱらとメニューをめくり、適当にオーダーを取る。しばらくしてゴオの前に運ばれた料理を見て、目の前の杏奈は目を丸くして料理をしばし見つめ、そして視線を動かしゴオの顔を見た。
「こ、こんなに食べるんですか……?」
 杏奈から投げかけられた疑問に、ゴオは心の中で首を傾げた。自分では普通だと思っているのだが、やはり人から見ると食べ過ぎなのだろうか。とりあえず運ばれてきたものを確認してみる。
 とんかつ膳(ご飯大盛)に麻婆茄子定食、シーザーサラダにチョコレートパフェにクリームあんみつに、シフォンケーキ──。
 自分で見てもやはり判断はできなかったので、まだ目を丸くしている彼女に問いかけてみる。
「やっぱり、多いかな?」
杏奈はぶんぶんと、髪の毛がジュースにつきそうな勢いで首を上下に振った。
「多いですよ、ご飯はともかくデザート! それはいくら何でも太っちゃいますよ」
「ハハハ。オレ、甘いもの好きだから」
 言い訳をしながら、ふと、前にもこんなことを言われた事実が頭の隅から転がり出てきた。確かあれはミラとアメリカで出会って、初めてデートした時だ。ランチの時にやはり大量のデザートを頼んだら、少し厳しい顔で言われたのだ。
「ゴオ、あまり甘いものばかり食べていると、太っちゃってロボットに乗れなくなるわよ」
 あの時も笑ってごまかし、ずっと甘いものばかり食べていたな。ミラも最初に注意した以外は、何も言わなくなったし。けれど、実際ヤバかったんだよな、何度かコクピットが狭くなって、ギリギリで戦った事もあったし……。
 目の前のものを黙々と口に運びながら、ゴオは今また思い出したミラとの過去に心を馳せていた──。
「猿渡さん、パフェ、溶けちゃってますよ」
 ミラとの思い出に耽っていたゴオが我に返ったのは、杏奈の注意を促す声であった。顔を上げると彼女はすっかりご飯を食べ終わっていて、飲み物についてきたストローの袋を所在なげに持て余していた。
 時計を見ると、レストランに入ってから既に2時間近く経過している。慌ててゴオは杏奈に頭を下げた。
「ごめん、杏奈ちゃん。気づかなくて」
「いいんです。わたしの事は気を遣わなくても。でも、パフェが溶けてこぼれるのは気になるから、早く食べちゃってくださいね」
 もう一度頭を下げてから、ゴオはパフェに取りかかった。
 杏奈はゴオがパフェを黙々と食べる姿をしみじみ見つめていた。自分の考えた計画はやはりゴオの心の負担を取り除く事は出来ないのかと少し落ち込んでしまう。今目の前で遠くを見つめたまま黙々と溶けきったパフェを口に運んでいる彼は、むしろいつもより落ち込んでいるようにしか見えない。
 杏奈は先ほど『猿渡さんが元気になる為に自分が元気に』という誓いが音を立てて崩れていくのを感じた。
 猿渡さんを見ていると、私も落ち込んじゃう。どうしたらいいんだろう……。わたし、猿渡さんを少しでも元気にしてあげる事が、出来るのかしら……。

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