1・願
〜Just a little〜

 

 できることなら、海に溶け込んでしまいたかった。
 悲しみも淋しさも心の弱ささえも、海の中で浄化させたかったから。
 でも、そんなことはできなくなっていたの。
 私は知ってしまったから。人を愛するということを。
 その想いが、危うい私を支えていたのに。
 それなのに、何故、あなたはいなくなってしまったの……?

 

「姉さん、起きろよ! もう着いたんだってば」
 隆に揺さぶられて慌てて起きたあたしは、閉じかかっていた江の電のドアからとび下りた。
「う〜ん、よく寝たぁ。気分は最良ー!」
 小さな駅のホームであたしは大きく伸びをする。
 やっと目的地に着いた喜びとぐっすり寝たおかげで、すごく気分がいい。
 あ〜、今日は今までの人生の中で最高の日だわぁ。
 すると、そんなあたしを見ていた隆が、ポツリと呟いた。
「何か姉さん、砂漠の中にいたトドが水をかけてもらって大喜びしているみたいだね」
 むっかぁ〜。
 そりゃ、ここは海の傍よ。水はあるわ。
 だからって、あたしの心の中にまで水はいらないわよっ。それにあたしはトドじゃないっ。
 あたしは隆を無視することにして、さっさと歩き出した。
「姉さんゴメン、オレが悪かったっ」
「やーだよぉ。許してなんかやんない。でも……」
 謝りながら追いかけてきたきた彼の瞳(め)を見た途端、あたしの心がコトリと揺れた。
 さりげなく、視線を外して。
「あたしに追いついたら許してあげるっ!」
 思いっきり遠くに行って叫んだ。
 それからはずーっと追っかけっこ。
 駅から海岸までの長い道のりをあたし達はひたすら走った。
 隆にとうとう捕まってしまったのは、海岸沿いに突き出ている古戦場の跡地──稲村ガ崎──に作られた海浜公園だった。
 二人で仲良くゴツゴツとした岩に腰掛け、一息ついた。
「つ、疲れたー」
「当たり前だろー。駅からここまで歩いたって5分以上あるんだから」
 そう言いながら、彼は途中で買ってきたらしいジュースを渡してくれた。
 ……やっぱり優しいなぁ。しかも、ちゃんとあたしの好きなのだし。
 彼の心遣いに感謝しながら、一口。炭酸がすーっと身体に染み渡ってため息ついた。
 ──ちょうど夕方に差し掛かった時間で、海や海岸が淡い夕焼け色に色付いていて、何だかこのまま夕日になってしまいそうな気分で、しばらくぼーっと座ってた。
 もう夕方に近い時間のためか周りには誰もいなくて、ただ静かな静寂があたし達を包んでいた。
「……父さん、今頃どうしているだろうね」
 初めに口を開いたのは隆だった。
「んー、何やってるんだろ。この時期教師って案外暇なのよね〜。始業式の準備とか」
「さすがに父さんでもそれは終わってるよ。母さんの桜草に水でもあげてるんじゃない?」
「いや、小さい頃の隆のアルバムとか見つけちゃってさー、『運動会見てやれなかったなぁ』とか呟いちゃってるのよ、きっと」
「じゃなかったら、姉さんとのツーショット写真見てニヤけてたり」
「ま、どっちにしても……」
「暇なんだろーなー。置き手紙のこしただけで来ちまったし」
「──ねえ、父さん疑ってたりしないかなぁ」
「ん、何を?」
「……だからぁ、手っ取り早く言えば『デキてる』って思っちゃうんじゃないのかなぁって」
「いや、それはないと思う」
 そうキッパリと言い切ると、隆はその場で大きく伸びをした。
「だってオレと姉さん、半分とはいえ血が繋がってるんだぜ。父さんだって分かってるはずだよ。それとも……」
 イタズラっぽそうに瞳を輝かせ、あたしを見た。
「そういう関係になりたい? 琴海ちゃん」
「バーカッ」
 思いっきりあかんべぇをしつつも、あたしの心はドキドキしてる。
 ……バカな事だって分かってる。絶対無理って事も知ってる。でもあたしは願ってるの。いつか、姉としてではなく、恋人として隆と手を繋ぎたいって。
「──もう、行こうか?」
 立ち上がった隆があたしに手を伸ばす。
「うん。でもホテルにチェックインする前に、もう少し海見ていこうね」
 そう言いながら、彼の手を取った。

 
 あたし、水上琴海(みなかみことみ)。普通の家庭に生れ育った(ハズ)の16歳。なんだけど……。(ハズ)って付いたからには何かある訳で……、実に素晴らしい家庭の事情というのがあったのよ。
 それが分かったのは14歳の時。前触れもなく父さんが一人の男の子を連れて来た。父さん曰く、
「オレの子供で隆っていうんだ。母さんと結婚する直前まで付き合っていた女(ひと)の子で……。つい最近コイツの母親が亡くなって……。認知していいか?」
 それを聞いた母さんは、認知はしたけどショックだったのか、持病の心臓発作で死亡。
 こうして隆はうちに住むことになったの。ね、立派な事情でしょ?(因みに隆の方が3ヶ月遅く生まれたので弟、なんです)
 それで、どうしてあたし達が父さんに内緒でこんな所に来ているかというと……。
 実はあたし、お寺や神社や古戦場があるこの鎌倉に、一度も来た事がなかったの。家から電車で1時間半のクセによ。
 元来、お寺や神社の類いが好きだったあたしは、何度も父さんに『行きた〜い!』って言った。でも全然取り合ってくれなかった。『京都か奈良ならいいぞ』って。
 理由(わけ)は単純。だって鎌倉は隆が2年前まで住んでいた街だったから。もし連れていってはち合わせでもしたら大変、そう思ってたみたいなの。
 今では『思い出がいっぱいあって辛いから』とか言って、ここの事を口に出すと悲しそうな表情になる。
 ……何か母さんの立場ないよなぁ……。
 ──閑話休題。
 だから隆に『もうすぐ誕生日なんだから連れてって』と無理にこじつけて、この古都に連れてきてもらったの。
 ニ泊して、帰る予定。
 もう嬉しくて、たまらないっと。
 ──さて。
 海浜公園から姑く海岸づたいに歩いた砂浜で、あたしは海を眺めてた。
 やっぱり海っていいわよねぇ。広くて、雄大で。それでいて何処かしら儚げで。そして何もかも包み込んでくれそうな暖かさをも持ち合わせてる。
 いいなぁ。あたし、海の中に溶け込んでみたい。
「何、考えてるの?」
 隆が尋ねてきた。
「ううん。何も考えていないわよ」
 そう返事を返した途端、心の隅に何かが引っ掛かった。
 ……何?
 記憶をそっとたぐり寄せてみたけれど、それはとても淡く曖昧なもので、良く分からなかった。
 一体なんなのよぉ。
 思わずため息をつくと、隆がポンポンと頭を叩いてきた。
「姉さん、悩みがあるなら相談しろよ。オレ、心配しちまうからさ」
 ……悩みねぇ。隆のことが好きなのに伝えられない……って言うのが、今の最大の悩みだわ。まあ、これは悩んでも仕方のないことだし、さっきのは忘れちゃえばいいことよね、うん。
「さてと。涼しくなってきたからそろそろチェックインしようか」
 そう決めてホテルに向かったのはいいんだけれど……。
「──え、ツインしか空いてない?」
「はい。シングル二部屋、と予約を承った筈だったのですが、手違いで……」
「ねえ、どうする?」
 あたしと隆はヒソヒソ相談。
「今、祭りやってるから、ここら辺の空きってない筈なんだよなぁ。あっても結構歩くぜ」
「え〜、あたしこれ以上歩く気ないよぉ。タクシー使うにしてもお金かかるし」
「よーし。男は度胸だ、ここにしよう」
「え〜っ!?」
 驚くあたしを尻目に彼はフロントの人に向かって、「じゃあ、ここでいいです」そう言ってしまったの。
「申し訳ありません。お詫びと言ってはなんですが、明日の朝、ルームサービスをお持ちいたしますので……。あ、これがお部屋のキーになります。ゆっくりお過ごし下さいませ」
 フロントの人はそう言うと、次のお客さんの対応を始めてしまっていた。
「……何か信じられないなぁ」
 小声で言ったつもりだったのに聞こえていたらしく、先を歩いていた隆が振り向いた。
「ん、何か言った?」
「ううん。何でもない。独り言」
 慌てて答えたけれど、あたしの頭はパニック状態だった。
 一緒の部屋に泊まるなんて、全然考えてなかったよ〜!
 ……一人顔を赤らめてるあたしに、ボーイさんが不審げな目を向けていた……。

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