──その晩、夢を見た。
何の夢かは殆ど憶えていないんだけれど、只一つだけ分かった事。
それは、水のまとわりつく感触。髪に、指に、身体にまとわりつく水。
目が覚めてからもしばらくの間、その感じは消えなかった。
気持ち悪くて手足を振ったら、ふっとその感触が消えるようになくなっていた。
とりあえずホッと一息付いて時計が八時を示しているのを確認して、ふと横のベッドを見ると、寝てるハズの隆がいない。……どこ、行っちゃったんだろ?
「たかしぃ」
とりあえず呼んでみると、開け放してあるテラスの方から「姉さん、起きたの?」と、隆の声がした。
ベッドから降りカーディガンを羽織ってテラスに出ていって、隆を見つけた。
彼は、海を見ていた。太陽に照らされて光り輝いている海を。
その光景を初めて見たハズなのにそうじゃない気がして、思わず目を擦った。と同時に、心の中に掠めるような不安が走った。
──何だろう? 懐かしさと同時に湧きあがるこの不安は──。
このままだと、この不安がどんどん膨れ上がりそうな思いに駆られたあたしは、振り切るかのように隆に声を掛けた。
「……隆、おはよっ」
「おはよう、姉さん」
振り向いた笑顔に、にっこりと笑い返す。
「なーに、朝から海見てるの?」
「いやー、昨日さっさと寝ちゃっただろ。だから朝五時半頃に起きちまってさ、それで海の方見てたら、なんかこう、雄大な気分になって……、それからずっと海を見てた」
「……って隆、今八時だよ? 二時間半も海見てたわけ?」
「え、もうそんな時間? ──気付かなかった」
あたしの言葉に、彼は心底驚いた様子だった。
近くに寄って、Tシャツから出ていた腕にそっと触れてみると、異様に冷たい。あたしは慌てて着ていたカーディガンを脱いで、隆の肩に掛けてあげた。
「もう、こんなに薄着で外にいたら、風邪引いちゃうよ。ホント父さんと一緒で、そういうこと無頓着なんだからぁ」
苦笑しながら言うと、隆も苦笑した。
……何かとても幸せ。傍に隆がいてくれる、手の届く所に。
そっと隆のTシャツの裾を触ってみた。
──どうしていないの? 何故私を置いていってしまったの──
あ、また……。
昨日から何度か浮かんでいるイメージが、また、浮かび上がってきた。でも、今までとは違う。悲しい想い……。
何故だか、震えが来た。それに気付いた隆が、自分の肩に掛かっていたあたしのカーディガンを掛けてくれた。
「ほら、オレに貸したからだよ。起きがけに半袖一枚じゃ寒いんだぞ。全く、姉さんは自分の事より人の事ばかり心配するんだから」
「いいのっ。あんたは弟なんだから。──それより早く朝食食べようよ。早く食べて、いっぱい観光地まわらなきゃ」
隆の気遣いが嬉しくて、でもそれを気付かれたくなくて、あたしは強引に話題をすり替えた。
「……そうだね。オレ、姉さんに色々な穴場教えたいんだ。──よし、早く行こう」
「うん」
ルームサービス〜♪と歌いながら先に行ってしまった隆の背中を見ながら、呟いた。
「姉さん、か……」
隆にとってあたしは姉でしかないんだろうな……。
きっといつかは大切な人を見つけて去ってしまうだろう。
でも、その日が来るまでは、彼の一番近くにいたい──。
朝食を食べ終わったあたしたちは、最初に鶴岡八幡宮へと向かった。
静御前が舞ったとされている舞殿を見ながら、階段の途中の大銀杏の枝で遊んでいたリスと戯れた後、本宮の中にある宝物殿を見学。
……なんか、おっきいなーという感想しかないなぁ(今回、あたしはガイドブックというものを全く見てこなかったの。隆に案内してもらえるからいいと思って)。休日という事もあって人も多いせいだとは思うんだけど。ここは源氏の守護神がいる所だっていうのに。
「ねえ、あたし人がいない所がいいなぁ」
そう言ったあたしに、彼はそこから歩いて5分程の所にある、宝戒寺(ほうかいじ)というお寺に連れていってくれた。
「ここは、昔は北条家の執権屋敷があったと言われている所なんだよ。別名『萩寺』とも言われてて、萩の咲く頃はいっぱい人が来るんだけどね。それ以外の時期は、あまり人が来なくて静かなんだ」
元・地元民の説明を聞きながら、小さなお寺の中をゆっくりと回って見た。
本当に、静かだった。だから何も考えないで、ただひたすら古都の情緒を満喫する事ができた。
「いいだろ、ここ」
「本当。こんな所があるなんて知らなかった。今まで京都や奈良を見てきたけれど、ここまで静かな所はなかったもの」
「オレ、父さんの所に行く前にこの近くに住んでたんだけどさ、本当に静かなんだ。萩が咲いたと思ったら人が来るぐらいで。……幸せだったなぁ……」
「じゃあ、今は? 今は幸せじゃないの?」
懐かしそうに昔の事を語る彼に、思わず尋ねてしまっていた。
「幸せに決まってるじゃないか。バカだな、姉さんは」
「だ、だって……」
だって見ちゃったんだもの。隆が話している時の、瞳。
本当に懐かしそうで、そして、それをとても大事にしている……そんな感じの。
見た途端、胸に鉛を詰められたような気分になってしまった。
ねえ隆。あたしとの二年間より、ここで過ごした日々の方が大事なの?
……思わず訊いてしまいそうになって、苦笑した。
バカね琴海。そんなの当たり前じゃないの。ここで隆は十四年もの月日を過ごしてきたんだもの。
「ねえ、もっと他のお寺にも行ってみようよ」
今の思いを振り切るように話題を変えた。
「そうだね。他にもお薦めの場所があるから行ってみようか? ……寺とかじゃないけど」
「うんっ」
──その後。隆とあたしは二十分程歩いて、一つの小さなお堂の前に来ていた。
「何、ここ?」
「岩船地蔵堂。源頼朝の長女、大姫の守り本尊がまつられているんだ」
「あ、大姫の事なら知ってる。すごい一生送ってるのよねぇ。七歳の時に、父親に自分の婚約者を殺されて、その後二十歳で死ぬまでずっとその婚約者の事を想っていた……って人よね」
「そうそう。良く知ってるね」
「……」
思わず、黙りこくってしまった。
……あたしが鎌倉──というか歴史に興味を持ったのは、大姫が原因なの、実は。
十歳くらいの時に母さんに彼女の事を聞いたのよ。どうしてだったかは忘れたけど。
それ以来、小学生のクセに系図やら吾妻鏡やら見たりして(……今考えるとすごく怖いんだけど。小学生が訳してあるとはいえ古典読むなんて)、たくさんの事を調べたの。今じゃだいぶ忘れているけれど(苦笑)。どうしてそこまで執着していたのかは分からないんだけど。でもなんか『エライエライ』って褒められるのは違う気がする……そんなに勉強してないように見えるのかな? あたしって。(まあ、忘れてはいるんだけどさ)
「……で、隆が見せたいのってここなわけ?」
ブスーッとした声で尋ねてやると、隆は自分が失言してしまっていた事に気付いたらしく、
「ごめんごめん。……ここじゃなくて、この先。亀ガ谷(かめがやつ)っていって、七切通(きりどおし)のうちの一つなんだ。崖と崖の間に立つと、なんかこう、緊張すんだよ。なんでだろ?」
謝りながらも、観光のポイントを教えてくれた。
崖と崖の間……ねぇ。どんな感じなんだろう? 考えたら、ほんの少しだけ機嫌が直った。
「じゃあ、早く行こうよ」
「そうだな」
二人、連れ立って歩き出した。
……二、三分は比較的勾配が緩くて歩きやすかった……んだけれど。
「何よこの道〜! きゅ、急すぎるぅっ!」
「我慢しろよ! ここの名前『亀もひっくり返る』って意味からきてるくらい急なんだから」
隆の言葉通り、正に『亀もひっくり返る』くらいに急なのよぉ。この坂っ!
まあ、切通って天然の要塞だったくらいだから、これくらい急でなきゃいけないと思うけど。昔見た本に書いてあったように、本当に馬2頭は通れない程狭いのねぇ。
なんて事を考えながら登っていたら、ふっと空が見えた。真っ青な空と、切れ切れに浮かぶ白い雲。日の光を浴びて、緑の色がこぼれ落ちてきそうな、木々の葉。……さっき隆が言ったような、素晴らしい景色があたしの視界を埋めた。
「わぁー! キレーイッ!」
「だろ? ここから見える空が最高なんだよ。何か自然は雄大だな〜、みたいなカンジがするんだ」
「本当。……あれ、でもさっきあんた、変な事言ってなかった? 『緊張する』みたいなこと」
「……うん。ここ、好きでよく来てたんだけどさ、見る度に『しっかりしなきゃ』って思いにとらわれるんだ」
「ふ〜ん。ねえ、他にも何か変な思いにとらわれる場所とか、ある?」
「あったかな……? ああ、由比ガ浜だ」
「へっ? 海水浴のメッカの、あそこ?」
「うん。あそこ……怖いんだよ」
「怖い?」
「何でか知らないんだけど。昔溺れたりでもしてるのかなぁ」
「──そうなんだ」
思わず、ため息を一つ。
「どうしたの?」
「実は、この後由比ガ浜行きたいと思ってたのよー」
隆がダメなら、しょうがないかな。
──大姫が主人公のとある小説をこの間読んだ時に、たくさん由比ガ浜が出てきたの。一度見てみたいな、そう思ったから。でもいいや。
そしたらあたしの表情で何を考えているか分かったらしい隆が、ニッコリ笑って言った。
「いいよ別に。今回の旅は『姉さんのワガママに付き合う』がコンセプトだから。でも今の時期、サーファーがいっぱいいるけど、いい?」
──ハイハイ、どうせあたしはワガママですよっ。でも、大丈夫なのかなぁ。
心配だったけど、どうしても見たい気持ちの方が勝ってしまって、結局頷いた。
「うんっ。でも本当にイヤになったら帰ろうね」
──そうして亀ガ谷を越えて、建長寺の傍にある『去来庵』(きょらいあん)というお店でビーフシチューとチーズケーキを食べておなかいっぱいになった後、『江ノ島・鎌倉フリーパス』の切符を使ってバスに乗って鎌倉駅まで出た後、由比ガ浜へと向かった。
サーファーはいたけれど、海水浴にはまだまだ早い時期なので、砂浜にはあまり人がいなかった。その浜辺を、ゆっくりと歩く。
「どお? やっぱり怖い?」
何考えてるんだか分からない表情で後ろからついてくる隆に、声を掛けた。
「あ、ああ。……懐かしいのと怖いのが、背中合わせって感じだな」
「何がそんなに怖いの?」
尋ねると。
「──オレにも分からないんだよ。とにかく、怖い」
そんな返事が返ってきた。
良く見ると、彼の身体が微かに震えている。
「ねえ、もう行こうか」
「……そうだな。ごめん姉さん、オレのせいで」
「大丈夫。もういっぱい見たし。そろそろ別の場所行こう」
踵を返して砂浜から出ようとした時。
「キャーッ!」
後ろから、叫び声がした。
えっ、何っ?
びっくりして振り返ろうとした途端、頭の中で何かが弾けた気がして……、ふっと意識の中に飲み込まれていった──。 |