──その日は、久しぶりに重保さまにお逢いする日だった。 
 毋さまや菊乃に見つからないようにしながらいつもの場所に行くと、既に重保さまはいらしていて、一人、由比の浜を見つめていた。
「重保さま!」
 私の呼ぶ声に彼が振り返る。海に反射した夕日の色が、重保さまの顔を照らしていて綺麗だったものだから、見とれて立ち止まってしまった。
「どうした?」
「ううん。何でもないの」
 そう返事をしながら、彼の座っている横に、ちょこんと座る。
「稲毛さまに呼ばれたんですって? 一体、どうなさったのかしら?」
「……俺にも分からないよ。でも父上も呼ばれていたから何かあるんだろうな」
「ふうん」
 頷きながら、彼にそっと寄り掛かる。久しぶりに逢えたのが、嬉しくてたまらない。
 寄り掛かったままにこにこしていたら、重保さまがそっと頬に口づけてくれた。そして私を抱きしめてくれる。
 幸せ。こうして大好きな由比の浜で、大好きな重保さまと一緒にいられる事が。
 ──重保さまに甘えたまま、そのままずっとお喋りをしていた。
 そのうちすっかり日が沈んでしまい、私はしぶしぶ腕の中から抜け出した。
「もう、帰らなきゃ」
「相変わらず、柚子(ゆうこ)の母上は厳しいの?」
「ええ。今日も内緒で出てきちゃったの。だって『あなたは側室の娘とはいえ、北条義時(ほうじょうよしとき)の子供なんですから。共の一人も付けないで出かけるものではありません』ってうるさいんですもの。……重保さまと逢うのもあまり快く思ってないみたいだし」
「そうか……」
 それっきり、彼は黙りこくってしまった。
「今度、いつ逢えるの?」
 尋ねると、考え込むような瞳になる。
「明日、かな」
「ここでいい?」
「──うん」
 頷いて、それでも瞳が迷っている。
「どうしたの?」
 疑問に思って顔を近付けた途端。
 抱きしめられた。いつものようにそっと包んでくれるようじゃなくて、その腕に想いの全てを込めているように。
「し、重保さま……?」
 あまりの腕の強さで息もできない中、ようよう彼の名前を呼ぶと。
「このまま……、今日だけでいいからずっと一緒にいてほしい」
 彼が吐息の中で、言った。
 しばらく、迷った。──毋さまの顔が浮かんだ。でもね、この腕の中にいると、何もかも忘れちゃうの。重保さまの事しか、考えられなくなっちゃうの。だから、首を振った。一度だけ、縦に。
 そんな私に、重保さまはそっと頬を擦り寄せてきた。
 それはとても、心地よかった……。

 

 ──ふと目が覚めると、重保さまは傍で眠っていた。でも、眠る前につないだ手は離さずにいてくれた。
 彼を起こさないように手を外して襟を整え、もう一度その手を握り直して横になろうとした時。
「わぁぁぁぁっ!」と、浜の方からあ大勢の人の叫ぶ声が聞こえてきた。
「重保さま、起きて」
 頬を軽く叩いて起こした。気持ち良さそうに眠っているのを起こすのは気が引けたけど、怖かったから。
「……どうした?」
「浜の方から、人の声がするの」
「どれ?」
 重保さまは四阿(あずまや)の扉を開けて、外の様子を窺った。すると扉の隙間から、風に乗って浜辺の人の会話が運ばれてきた。
「謀叛人だーっ!」
「謀叛人がいるぞー!」
 それが聞こえた途端、二人して顔を見合わせてしまった。
「謀叛人……? 一体、誰が──」
 ぽつりと呟いた私の横で、重保さまは素早く身支度をすると。「何があるか分からないから、柚子はここにいて。浜の方に行ってくる」
 不安が心をよぎったけれど、頷いた。
「私、待ってます」
 すると重保さまは私の手を取って、微笑んで言った。
「──ありがとう、柚子」
 そしてすぐにくるりと後ろを向いて、走って行ってしまった──。
 慌てて後を追った。今さっき約束した事なんか、すっかり忘れていた。だって。今重保さまが言った言葉に、言葉の持つ意味以上の何かが含まれているのが感じられたから。それがとても不安だったから。だから走った。由比の浜へと。
 ……もう少しで由比の浜に着く、その時に声があがった。
「謀叛人を打ち取ったぞー!」
 誰かが高々と、『謀叛人』の身体から切り取った首を掲げている。
 二十日あまりの月の明かりに照らされたそれが誰なのかを悟った途端、自分が崩れていくような感覚に襲われた。
「重保さま……」
 どうして、どうして彼が謀叛人になって、殺されて──!
「いやぁぁー!!」
 自分でも気付かないうちに叫び声を上げて──ふっと意識が途絶えて──。

 

 ハッとして目を開けると、そこは畳の部屋だった。辺りを見渡すと、心配そうな隆の瞳にぶつかった。
「良かったぁ。目、覚ましたんだ」
「ここ……、どこ?」
「浜の傍の割烹旅館だよ。急に倒れたから、理由言って休ませてもらったんだ」
「そう……」
 起き上がって、一息。
 さっき見た夢が頭にこびりついて離れなかった。
 ──あれは、何?
 一生懸命、内容を整理しようとした。
 重保って……確か最近授業で聞いたわ、畠山重保の事よね。夢で見たように、由比ガ浜におびき出されて殺されちゃうのよ。たしか……え〜っと、元久二年(1205年)の六月二十二日だって言ってた気がする。しかも確か、彼は無実の罪で殺されるの。
 で、女の子の方は……柚子って呼ばれてた。北条義時の子供と言われていたから──。あの大姫の親類にあたるわけだ。
 今あたしは、重保の誅殺(ちゅうさつ)の場面を夢で見ていた……しかも、恋人である柚子がそれを目の当たりにしていた夢を──。
 彼女は、どんなに辛かったんだろう。
 そう思ったら、心の中から想いがあふれ出てきたの。
 ──どこにもあの人がいないの、淋しいの──
 どうして? きっと今の想いは柚子のものが滲み出てきたもの。どうしてあたしの中からあふれてくるの? ──もしかして、柚子はあたしの前世、なの?
 ここまで考えて、自分がなんだかバカバカしくなった。
 そんなわけない。さっきの夢はあの浜に残っていた想いに囚われただけ。
 でも、と心の中からもう一人の自分が問い掛けてくる。
 ──昨日海を見ていた時に沸き上がったイメージは? 夕日が好きと言った時の既視感(デジャ・ヴュ)は? 隆のTシャツを掴んだ時の想いは一体どう説明するの?
 ああ、もう何も考えずに眠ってしまいたい。でも眠ったらきっと彼女の夢を見てしまう。重保がいなくなった後の柚子の心に触れてしまう。──今は、ダメ。まだ見れない。心が混乱しちゃうもの。
「隆、あたしもう大丈夫だよ。お礼言って出よう」
 隆に促した。
 このままここにいてもしょうがないと思ったのもあるし、それに、ここはまだ由比ガ浜の傍だから。隆が心配なの。
「そうだね。顔色もすっかり良くなったみたいだし」
 旅館の人にお礼を言って外に出た後、長谷駅に向かいながら隆が訊いてきた。
「さっき姉さん、何の夢見てたのさ。かなりうなされてたみたいだけど?」
「ん〜……隆が怪獣になって襲ってきたの。押し潰されそうになったんだから」
 咄嗟に嘘をついた。本当の事を話すことにはためらいがあったから。
「姉さ〜ん、そういう冗談やめようよ〜」
「ホ、ホントだもんっ」
 情けない声を出す隆を置いて、とっとと歩き出した。
 きっと、今まで心の中に幾重にも包まれていたものが、鎌倉、というキーワードでだんだんとその姿を見せ始めている……そんな気がする。あと一つ、何かのきっかけがあれば、それは姿を現すだろう。
 そんな曖昧な予感を心に浮かべながら、あたしは歩いていた──。

 

 

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