「もう日が暮れちゃったね。ほら、星が出てるよ」
倒れた事をさして気にもせず、長谷観音と大仏、最後に極楽寺を見た後、七切通の一つである極楽寺坂を下ってホテルへと帰る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。街灯があるクセに結構暗いから、あたしは隆のシャツを端を掴んでいた。
……本当は、極楽寺は明日見るつもりだったから、大仏見たら帰るつもりだったのに、隆が無理に引っ張ってってくれちゃったのよ。まあ、夕日に映える茅葺き屋根の山門見れて良かったんだけど。
「そう言えば姉さん」
不意に堅い声音で隆が話し掛けてきた。
「さっきどんな夢見てたのさ。ウソだろ、オレが怪獣になったなんて」
ドキッ。ど、どうして分かったんだろ。
思わずうろたえてしまって、どうごまかそうか悩んだけれど、隆の顔を見た途端、その気は失せた。
彼が今まで見た事もないような真剣な瞳で、あたしを見ていたから。
「……うん、ゴメン。さっき言ったのはウソなの。本当は……」
仕方なく、あの時の夢を話す事にした。──ただ、昨日から何度か同じようなものを感じている、という事までは話さなかったけれど。全てを話す事はどうしてもためらいがあったから。
あたしが話し終えると、隆は難しい顔つきで黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
「姉さんは、それは夢だと思ってる?」
いきなり聞かれて戸惑った。
「う、うん……。他に考えられる? まさか前世とかいうんじゃないでしょうね。それって非現実すぎない?」
「夢って思ってるんだったら、いいや」
笑いながら否定したら、投げやりな返事が返ってきた。
どういうことなの?夢だって思ってるなら──って、あれは本当にあったことで、あたしは柚子ってことなの? 第一、どうして隆がそんな事を言うの?
考え始めたら何だか苛ついてきて、いっそ隆に八つ当たりしようかと思ったけど、さっきの投げやりな返事がどうしても耳から離れなくて、結局その後お互い一言も口をきかずにホテルへと戻った──。
はぁ〜。思わずため息。
ホテルに着いて、でもなんか隆と一緒にいたくないな〜なんて思っていたら、その隆がロビーの傍の売店に一人で行ってしまったの。あたしもすぐに戻る気がしなかったから、喫茶室に入って紅茶を飲んでいた。
……あーあ、あたし何やってるんだろ。せっかくムードのあるシチュエーションだったのに、気まずくなっちゃうなんて。
一人で何度もため息つきつつ紅茶を二杯お代わりした後、ロビーの方へ行ってみる事にした。──どうしてあの時隆の機嫌が悪くなったのかは釈然としないんだけど、謝りたかったから。
でも、売店で探してみたけど、彼はいなかった。……部屋に帰っちゃったのかな?
あたしはエレベーターではなく階段で部屋のある階に上がり、自分たちの部屋のドアの前で、立ち止まった。
すぅ、はぁ〜。
深呼吸して心を落ち着かせ、ノックする。でも、返事がなかった。そっとノブを回してみると開いてしまったので、部屋へとコソコソと歩いていく。
──あたし、泥棒みたい。何だか恥ずかしいな。
その状態で物陰からそっと気配のする方を覗くと、彼はベッドに座り込んで手で何かを弄んでいた。
「……隆」
声を掛けたら、彼はさして驚きもせずにこちらを向いた。
「……あ、姉さん」
どうやら彼は、別の想いに心を囚われていたみたい。
「姉さん、こっち来てよ。いい物見つけたんだ」
そう言って隆はあたしを手招きした。
何だろ、いい物って。さっきまで弄んでいたヤツみたいだけど。
気になって近くまで寄ってみたら、彼はポンポンと自分の座っている横を叩くの。
「ここ、座って」
言われるままにちょこんと座った。
「目瞑って、手を出して」
「こう?」
その通りにすると、何かがのっけられた。片手に乗るくらい小さくて、ビニール袋に包まれているらしい……何だろう?
「見ていいよ」
そっと目を開けてみたら。
「うわぁ、可愛い〜!」
掌に紫陽花が咲いていた。──とは言っても、本物じゃなくて、小さなこんぺいとうが紫陽花の花ひとつひとつを模している、お菓子。
「さっき父さんに土産探していたら見つけたんだ。旅の記念に、あげるよ」
「──え?」
言われた途端、心の中で全てがはじけた。
視界が、自分が、想いが──心の中に潜んでいた記憶に染めあげられていく。
そう、私は──。
──初めて彼に逢ったのは、亀ガ谷の入り口だった。
毋さまが季節の変わり目で寝込んでしまったので、床に可愛らしい花でも飾ってあげたいな、そう思って花を見つけに来ていて、気付かないうちに谷(やつ)の入り口にまで来てしまっていたの。
しかも、屋敷を出た時はまだ日も高かったのに、既に辺りは暗くなってきている。
「……どうしよう」
一人、途方に暮れてしまった。──だって、毋さまにはもちろん、乳母(めのと)の菊乃にさえも、黙って屋敷を抜け出してきてしまっていたんだもの。
……またお小言言われるの、嫌だな。もう、戻らなきゃ。
くるんと踵を返した、その時。後ろから馬の駆けてくる音がして、私はもう一度、谷の入り口に身体を向けた。
するとそこには一頭の馬がいて、上に(当たり前なんだけど)男の人が乗っていた。
「どうしたの?」
馬上の人が尋ねてきたので、答えた。
「……毋さまにお花を摘んでいたの。床についていらっしゃるから、少しでも元気になるようにって」
「でも、共も付けずにこんな時間までこんな所にいたら、屋敷の人や家族が心配するよ。君の父上なんか、驚いているんじゃないの?」
そう言われて、黙り込んでしまった。父さまの話は、したくない。
「……ごめん。もしかして、父上は屋敷にはいないんだね」
「……そうなの。毋さまは父さまが鎌倉にいらしてから恋人になった人なの。毋さまは身分が低いから、父さまはうちの屋敷には滅多にいらっしゃらないの。でも、毋さまが病の時くらいはいてほしいかなって」
謝られてしまったのが何だか嫌で、私は父さまのことを話した。
「そうか……。でも、君の父上はちゃんと君の事も考えていると思うな。だって、自分の子供なんだから」
「父さまはそんな人じゃないわ。私なんか子供だとも思われていないかもしれない。ご自分の体面のために、毋さまに屋敷を与えているだけよ、きっと。父さまの他の奥方さまたちは、私たち親子の事を疎んでいると聞いた事もあるもの」
「でも、君は君じゃないか。他の誰でもない、自分なんだから。君が自分を卑下しちゃいけないよ」
言われて、はっとした。確かに私は自分の事を卑下しているかもしれない。どうでもいいと思っていたかもしれない。
「……あ、ありがとう。少し、気持ちが軽くなった」
「そうか、良かった」
嬉しそうな口調で彼が言いながら、微笑んだ。その笑顔に、ことりと心が揺れた。
「じゃあ、もう屋敷に帰った方がいいね。どこにあるの?」
「大丈夫。一人で帰れるから」
「うん、分かった。──そうだ」
私の言葉に頷いて、そして何か思い付いたような表情になり、馬上から届く位置にあった、紫の色も鮮やかな紫陽花の花を二つ手折って馬から降りて、私に渡してくれたの。
「君が持っている花だけだとちょっと淋しいから、これを母上さまの所に持っていくといいよ」
そう言って、一つを私の右手にある花束の中に入れてくれた。
「そしてこれは、君に」
もう一つは、左手の中。
「私に?」
「うん。今日の記念に」
少し恥ずかしそうに言ったかと思うと、馬に乗って駆けて行ってしまった。
私はこれからの事も忘れて、その場に立ち尽くしてしまっていた──。
──二度目に逢ったのは、由比の浜だった。夏ももう終わりに近付いていた頃。その日、とても嫌な事のあった私は屋敷を逃げ出して、浜に来ていた。そこでばったり、あの人と出会ったの。
「あ……、柚子どの、ですか?」
驚いた事に彼の方から話し掛けてきた。
「え、ええ。でも、どうして私の名前を?」
「この間お逢いした後に、屋敷に戻って色々聞いた所、柚子どのだということが分かったので」
きっと、この間話した内容を符合させたのだろう。
「はい。北条義時が娘の、柚子です」
父さまの名前を出す時に、自分でもはっきりと分かるほど顔が強張るのが分かった。
彼もそれに気付いたらしく、何か言おうとしたけれど黙っている。私から話すのを待ってくれているようだった。
「……今日ね、とても嫌な事があったの」
「父上の事?」
「うん。今日久しぶりに父さまが屋敷にいらっしゃったの。でもね、私には一言もお声を掛けて下さらなかったの。それで、どうしたらいいのか分からなくなってしまって……」
ほう、とため息をつく。
「もう、ここにいるのは嫌だなぁって。そう思ったらこの浜に来ていた。それで、海を見ていて思ったの。何も考えずに、この海の中に溶け込んでしまえたら、どんなにいいだろうって」
夕焼け色に染まり始めた海に、そっと手を伸ばしながら、一気に言った。
──本当に、そうしてしまいたかった。私と言う存在なんて、消えてなくなってしまえばいいと思ったの。そうすればきっと、こんな想いはしなくてすむから。
そんな私に、彼は静かに話し掛けてきた。
「──そんな事を言ってはいけないと思うよ。この間も言ったと思うけど、君は君自身なのだから。自分で自分を大切にしなきゃ。それに……」
少し、顔を赤らめて。
「きっと柚子どのの事を考えている人は、いると思うよ。そう、俺みたいに」
え? びっくりして、彼に視線を向けた。そんな風に私の事を考えてくれる人なんて、いないと思っていたから。
でもね。
私も彼の事を考えていたの。初めて逢った、あの日から。彼の事が気になってしょうがなかった。私の思いを理解してくれる人──。きっとこの人なら私の全てを理解してくれる……って。
何だか嬉しくて彼にお礼を言おうとして、そこで初めて彼の名前さえも知らない事に気付いた。
「あ、ありがとう……。あの、お名前は……?」
恐る恐る尋ねると、にっこりと笑った。
「俺の名は六郎重保」
「……って、畠山の?」
「うん。だから柚子どのの従兄弟にあたるんだ。俺の母上は柚子どのの父上の妹だから」
彼──重保さまの父上の事は、私もよく知っている。前将軍さま──源頼朝公──が重宝していた家臣だという事を、菊乃がよく話していたから。
でも、彼が私の従兄弟だっていうのは、何だか不思議な感じがするなぁ。今まで、父さまの方の縁者には会った事もないし。
ひとり、あれこれ考えていたら、不意に重保さまに声を掛けられた。
「ねえ、これからもこうして逢わない? 柚子どのが良かったら、だけど……」
その言葉に驚いて顔を上げて、重保さまを見た。彼は少し恥ずかしそうにしながらも、まっすぐに私を見ていた。
うん。この人なら大丈夫。
「私もね、重保さまにまた逢いたいと思ったの。初めて逢った時から──」
こんな事言うの初めてで、恥ずかしくて下を向いていたら、ふわっと何かに包み込まれて、気付いたら重保さまの腕の中にいた。
心臓の鼓動が激しくて、重保さまに聞こえちゃうんじゃないかと心配で、でもこんなに彼の傍にいるのが嬉しくて、彼の胸にそっと顔を寄せた。
すると心臓の音が聞こえてきた。──私と同じ、早鐘のような鼓動。それがなんだか嬉しくて、私は重保さまの直垂(ひたたれ)を掴んでいた腕を、そっと彼の背中に回して抱きしめた──。
それから、重保さまが鎌倉にいる時は毎日のように逢った。
由比の浜に遊びに行ったり、名越の谷の方へ遠駆けに行ったり。
彼が畠山庄に帰っている時は、文のやり取りをしていた。
その文が途絶えてしまったのが、今年(一二〇五)の五月。鎌倉の地で私は一人、やきもきしていた。
……どうしたんだろう? 今まで一月以上文をくれなかったことなんてなかったのに。畠山庄の方で何かあったのかな?
心配と不安で心がいっぱいになってきた頃、不意に重保さまが鎌倉に戻ってきて、そうして──あの『事件』が起こった……。 |