その日は早あがりだった。
自宅に戻って珍しく自炊なんかして。食べ終わってからおもむろに冷蔵庫から缶ビールを取り出し、まったりとバイクの雑誌なんかをぱらぱら見ながらキンキンに冷えたビールを飲み。
いやぁ、こんな夜って久々? 明日は休暇もらってるしなー、なんてものすごくリラックスしていた賢木の耳に、来客を告げるインターホンの音が鳴り響いた。
荷物なんか頼んでないし、もちろん出前も頼んじゃいない。一体誰だよ、などと考えながらインターホンに映った映像をちらっと見た瞬間、あり得ない客がマンション入り口に立っているのを見つけ、驚いてほろ酔い気分が一気に醒めた。
律儀に解除キーを探しもせずにたたずんでいるので、大急ぎでオートロックを解除してやり、自身は慌てて玄関を開け、エレベータで上がってくる客を待ち構えてみた。
やがて、目の前に現れたのはさっきバベル内で別れたばかりの、可愛い愛しい恋人の姿。ただ、さっき別れた時とは明らかに表情が異なっている。頬は紅潮し、息を切らせて。そして何より──瞳に涙を溜めていた。
「──どうしたんだ?」
玄関先だからと、とりあえず無難な言葉で問いかけてみると、彼女は何も言わずに賢木の脇をすり抜け、勝手知ったる家と言わんばかりにリビングへと入って行った。
何がなんだか理解が出来ずに、どうしたもんかと思いながらがしがし頭を掻きつつリビングに戻ると、紫穂は床にぺたりと座ってソファの座面に頭を伏せていた。ふわふわと広がった髪にそっと触れる。
「……こんな時間にどうしたんだ、紫穂」
改めて問いかけると少しだけ頭をもたげてこちらを見る。うるうると涙をたたえた瞳が、場違いだと知りつつも色香を感じてしまってどうしようもない。なに考えてるんだ、俺! と叱咤しつつもう一度髪を撫でると小さな声が聞こえてきた。
「薫ちゃんたちとケンカしたの」
「珍しいな。飛び出してくる所まで派手なヤツは」
「……だって!」
言いながら、そっと手を伸ばしてきた。触れろ、という意味だと気づいて、彼女と同じように床に直に座ってあえて手に触れずにそっと抱きしめてやった。触れた肩越しから流れてきたものは……。
夕飯を済ませて且つお風呂も入って。一番遅く紫穂が風呂場から出てリビングに戻ると、葵はダイニングのテーブルで宿題を、薫はリビングのソファに寝っ転がって雑誌を読んでいた。皆本はどうやら自室にこもって仕事をしているよでいない。
どうしようかしら、と逡巡してから薫のいるソファに座る。
「紫穂は宿題終わったん?」
シャーペンを走らせノートに視線を向けたまま、葵が問いかけてきた。一瞬答えにつまるけど、あとでバレるともっと色々言われると思い素直に答えておく。
「うん、さっきセンセイのところに行った時に済ませてきたわ」
「おおっ、密会ってヤツですか?」
ニヤニヤしながら隣にいた薫が雑誌から顔を上げて問いかけてくる。キラキラとした瞳の中に何やら含みがあるのが見え隠れして、紫穂は苦笑してしまった。
「いつも通り、勉強見てもらってただけだってば」
「ええなぁ。紫穂は専属家庭教師がおって」
葵に間違った方向につっこまれて先程とは違った苦笑を漏らしてしまう。
「専属家庭教師、ってさすがにそれだけじゃないわよ」
「……ま、まあそうなんやけどな」
質問した葵が照れてしまうような答えをしれっと返してから、紫穂は薫の読んでいた雑誌を横から覗き込んだ。それはいつも皆が読んでいるティーン向けの雑誌だった。開いているところは『特集:真夏の恋対策』
どうやら星座、血液型などの占いで自分の傾向を調べ、相手のことも調べてその組み合わせで傾向と対策を練る、と言ったもののようだった。
……これ、今年の始めにもあった気がするわ、などと思いながらも紫穂はさらりと読み進めていった。薫が読んでいるのであえて次のページなんかはサイコメトリーを使って読んでみる。
今年の頭に見たのと変わってないような気がする。なんて思いながら透視をしていると、不意に薫が思い出したように紫穂に問いかけてきた。
「なー紫穂」
「ん? なぁに、薫ちゃん」
「そういや、センセイの血液型って記憶にないんだけど、何型だっけ? 星座は憶えてるんだ。確か蟹座」
問われて即座に返事が出来ずに押し黙ってしまう。……知らないわけじゃない。むしろ良く知ってる。年始の占いの時に気になって気になってわざわざ触れに行って確かめたくらいだから。
だからこそ言いたくない。これがね、双子座とかだったら良かったと思うのよね──などと思ってみたりもするが、横で薫が今か今かと回答を待ちかねている。軽く嘆息して、紫穂はポツリと呟いた。
「えーがた」
──一瞬の、沈黙。本当にその場にいた人間の動きがピタリ、と止まっていた。勉強に集中していたはずの葵の動きまで。
「ふぇええええええー!?」
あまりの事実に信じられない、と言った大声を上げながら、薫は紫穂の顔と雑誌を見比べていた。
「……ありえへんわ。センセイってばウチと同じ血液型なんや」
ようやく話せるようになった葵が、向こう側からしみじみと本音を漏らした。
「や、それありえないでしょ。だってセンセイだよ。歩くおねーちゃんを片っ端からナンパしてたって言っても過言じゃないセンセイだよ。それがあの真面目で神経質と評されるA型なんて信じられない。しかもだよ」
薫は持ってた雑誌を握りしめ、葵のところに飛んで行く。ふわりと降りたって、ずずいっと葵に雑誌を突きつけてとあるところを指し示した。
「蟹座のA型のところ読んでよ、ホントにビックリだから」
「生真面目なロマンチスト……ってあり得へんわ!」
「ねっ、絶対考えられないよね……って」
二人でわいのわいのやっている横で、紫穂はグッと我慢していた。星座や血液型の組み合わせだけじゃ人間性なんて推し量れない、そう思っているし理解は出来ているけど、でもやっぱり大好きな人がなんだかものすごく誤解されているのを見ているのはいい気持ちじゃない……ううん、ものすごくムカつく。
「……なによ、センセイがロマンチストとか、そんなに意外?」
思わず出てしまった言葉は自分が思った以上に声が低くて。二人がびくりと肩をふるわせたのが判ったけれど、止められないまま続けた。
「そんなこと言ったら皆本さんのB型とかもおかしいじゃない。あり得ないって私だったら言っちゃうわ」
「そんなことないもんっ! 皆本のあれは合ってるし! センセイの方がよっぽどじゃんか」
「そうや。紫穂はセンセイ好きすぎて見えてないのとちがう?」
「──見えてなくなんてない! 好きすぎてしょうがないってのは判るけど、ちゃんとセンセイの性格は把握しているつもりよっ!」
ここまで読んで、これ以上はなんだか申し訳ない気がして賢木はサイコメトリーを中断した。そのままぎゅっと抱きしめ、紫穂の耳に囁く。
「んなこと、俺は気にしてないんだから。紫穂だって気にすんな」
「だって……センセイの本当の姿を知らない人からしたら、あれはあり得ないって思うのは当然なんだけど。でもセンセイが悪く言われるのは許せないんだもの」
「いいんだよ、そういうのはコイビトである紫穂だけが知ってればいいんじゃねーの?」
言ってて少し照れたが、まあ本音なので答えておく。
実際、他の人に同じことを答えたとしたら薫ちゃんや葵ちゃんと同じような反応を返されると思っている。それくらいのことをしていたわけで。
けれど、本当は違うんだ、というのを知っているのは本音を晒すことが出来る相手だけでいい、そう思う。
すると、みるみる紫穂の耳が赤くなっていくのが判って、なんだかこちらもますます照れてしまった。
「と、ところでどーすんだ? 皆本のマンションに戻るか? それとも親父さんのうちに戻るか?」
照れたのをごまかすかのように慌ててこれからのことを問いかけると、ふるふると首が横に振られた。
「薫ちゃんたちのところには戻りたくない。ベッド一つだから、結局顔合わせることになっちゃうし。パパたちは一昨日から海外出張。帰ってくるのは明後日。誰もいないの」
言われて困ってしまう。確かに、皆本のマンションに帰るのには抵抗があるだろう。あれだけ派手なケンカをしたり告白大合戦のようなことをやらかしたら、しばらくは顔を見るのもイヤなはずだ。かといって実家は誰もいない……困ったな、などと思っていると、先程見た潤んだ瞳のまま、紫穂は賢木の顔を見つめてきた。
「私、今夜はここに泊まっちゃダメかしら?」
「へっ?」
あまりにも思いがけない提案に、思わず間抜けな返事をしてしまう。本人自覚なしとはいえ色香を漂わせながらお泊まり発言って……あのー、などと思わず心中でツッコミを入れてしまう。
「だって、帰るところないんだもの」
「……皆本には、なんて言うんだよ。知らないだろ、俺たちの関係?」
無邪気な答えに返した声は、思った以上に掠れていた。
「センセイなら、きっと当たり障りのない言い訳をしてくれるって信じてるから。ね、お願い。本当に困ってるの」
賢木の心中を知ることもなく無邪気なままの紫穂に、賢木はうなだれながら是の答えを返すことしか、出来なかった。
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