雨が好きになったのは、いつからのことだろうか。
 暗くよどんだ雨空を窓越しに眺めながら、亜夜は考えていた。
 水滴が硝子窓を伝う。吐く息で、瞬間的に視界が白くなる。
 四月だというのに、外気は冷えている。この雨では、最後の桜も総て散ってしまうだろう。
 部屋の電気はついていない。朝だというのに、まるで深夜のような闇。
 窓の外からの光も弱い。灰色の、どんよりとした厚い雲が街を覆う。
 亜夜は長い髪に指を入れ、軽く梳る。茶色く脱色した髪が、さらりと流れる。
 亜夜は茶髪を好まなかった。しかし、次の「潜入先」には必要な処置なのだ。
 雨は降り続いている。亜夜の気持ちはその雨垂れの動きのように、千々に乱れる。乱れながらも、その心の乱れが逆に彼女を冷静にしていく。
 その、冷静になる過程が心地よいのだ。雨のリズムが彼女を心地よくしていく。千々に乱れながらも、心地よい波動。
 不意に、あの男の声が脳裏に蘇る。
「おれについてこい……お前の望みを叶えてやる」
 あの日も雨だった。父が死に、研究所が閉鎖され、身寄りのない亜夜はひとりになった。薄暗い曇り空……大きな雨粒がまばらに降ってきていた。
 目の前が真っ暗になっていた。漠然と「死」を思っていた。しかし、自殺を考えていたわけではない。不安感から、極端な想像――たとえば野垂れ死にする自分の姿――をしていたに過ぎなかったのだ、と今の亜夜には思える。
 父の遺産はすべて研究所の閉鎖の費用に消えていった。研究のための借金もあったのだろう。亜夜の手元には数万円の現金が残されただけだった。
 泣くこともできず、なす術もなく、住居だった研究所を追い出され、亜夜は天涯孤独を味わっていた。もう、居場所がない。もう、頼る人もいない……。
 そこにあの男があらわれたのだ。
 長身痩躯。膝が悪いのだろうか、金属性の杖をついていた。濃緑色の長い外套が全身を覆っている。髪は長く、眼が隠れていて表情も判らない。しかしそれは雨の中、傘もささずに立っていたためなのだ、と亜夜は今さらながらに気づく。
「殺されたのだ」
 男は感情のない声で言った。はっきりと覚えている。
「お前の父は殺されたのだ。事故などではない。殺されたのだ!」
 亜夜の空虚だった心に、熱い何かが流れ込んできた。
 亜夜は瞬間的に総てを理解していた。不安の元だった心の澱が一気に押し出され、激流となって亜夜の口から迸った。
「殺された! 殺された? 誰に? あいつに!?」
 青白かった皮膚に赤みが差し、虚ろだった眼に光が戻った。
 同時に、左胸に熱いものが込み上げてくる。
 幼いころ、埋め込まれたペースメーカー。
 左の乳房の下に、ひっそりと残る手術の後。父の研究の成果である、心臓を補助する無電源ペースメーカー。そのちいさな機械までもが、彼女の身体の一部として熱く燃えていた。
「そう……その名を心に刻み込め。男の名は、鷺宮恭三!」
 鷺宮恭三……鷺宮博士! 日本でも屈指のロボット工学の権威……父の、祭文教授の右腕を長年務め上げた男……彼が……彼が!
「おれについてこい……お前の望みを叶えてやる」
 男は抑揚のない声で続けた。雨が少しずつ強くなっていく。亜夜もいつの間にか、傘を手放して濡れていた。
「今日からお前は祭文亜夜ではない……おれの妹、御厨亜夜だ」
 男はポケットから携帯電話を取り出す。銀色に輝くその携帯電話を、目にも止まらぬ速度で濡れそぼる少女に向かって投げつけた。
 亜夜はその動きのあまりの素早さに、指一本動かすことができない。しかし、その携帯電話が亜夜に激突することはなかった。
 亜夜の目の前には、彼女の物ではない〈第三の腕〉が伸びていた。その腕が、携帯電話をしっかりと握っていたのだ。
「怒り! 悲しみ! 欲望! D−エンジンに火をつけるものは、激情だ! 亜夜、熱くなれ! そして復讐のために燃えるのだ!」
 男はそこまで言うと、くるりと踵を返した。ぱっ、と雨粒が散る。
「連絡はその携帯でする。おれの指示に従ってくれればいい」
「あ……」
 亜夜は男を追おうとする。しかし、目の前にある〈第三の腕〉に戸惑い、自由に動けない。
「おれは御厨暁。おれの妹になってもらうには、少しばかり訓練してもらうことがあるが、まぁそんなに心配するな。お前に復讐の意志があるのなら――いや、D−エンジンが発動したからにはないわけはないのだが――おれについてこい」
 男は振り返り、始めてその眼を見せた。切れ長で涼やかだが、どこかに影のある眼。細い顎には、うっすらと不精髭が生えていた。
「よろしくな、亜夜……そしてボーグR!」
 亜夜は知った。乳房の下で燃えている力の謎を――無電源ペースメーカー……D−エンジンのことを――そして〈第三の腕〉がどこからやってくるのかを――瞬時に理解した。 ここからの人生は、復讐の人生だ。第二の人生だ。亜夜は生まれ変わるのだ――。
 ――気づくと、携帯電話が震えている。亜夜は銀色の精密機械を取り上げ、アンテナを伸ばしながら応答する。
「……亜夜か」
「暁……」
「……今日から行ってもらう学校のことを伝える。準備はいいか」
「制服がまだ……」
「宅配便の荷物の中にあるはずだ。確認しろ」
「わかった……」
 薄暗い部屋の中で、亜夜は急速に戦士の顔つきになっていく。
 二ヶ月間の地獄のようなトレーニングの結果が今日、出るのだ。
 この二ヶ月で亜夜の腹筋は割れ、身体中に筋肉が浮き出るようになっていた。体脂肪はおよそ女性のそれではなく、筋力、瞬発力、持久力、どれを取ってもトップアスリートに匹敵するものを持つに至っていた。
 それも、人を殺さぬ「活殺の拳」を得るため。
 総ては復讐のため。
 鷺宮博士の野望を潰えやるため。
 自分の存在意義のため――。
 亜夜は立ち上がった。

「転校生を紹介します。はいはい、みんな席について!」
 そう言って、女教諭は黒板に彼女の名を大書した。
「御厨亜夜。みくりや・あやです。よろしくお願いします」
 茶髪の小柄な少女はそう言って、ぺこりと頭を下げた。長い髪がふわりと拡がる。クラスの四分の三を占める男子生徒から、低い唸りのような声が上がる。
「御厨さんはお父さまが亡くなられてしまって、離れて住んでいたお兄さまの関係でこの学校に転校されて来ました。みなさん、仲よくしてあげてくださいね」
 女教諭は決まり文句をひととおり言い終えると、亜夜を教室の隅に座らせた。まだ亜夜の席は正式には決まっていない。
 四月も半ばの、中途半端な時期の転校である。もっとも、この二年A組というクラスもまだ出来上がって数日しか経ていない集団なのであって、亜夜だけが新人というわけでもない。知らない同士が固まっているところに、数日遅れでもうひとり知らない人間が加わっただけなのだ。
 亜夜は愛想笑いを浮かべながら机の間を通り、教室の最後部にある席に掛けた。隣にクラスメイトはいない。突起のように、亜夜の席だけが後方に飛び出しているのだ。
「では、SHRが終わり次第、音楽室に移動してくださいね」
 女教諭は自分の授業にしか興味がないらしく、SHRもそこそこに音楽室へと向かって行ってしまう。クラスがざわついた。興味はやはり、亜夜に集中する。
「お兄さんとは二人暮らしなの?」
「いいえ、兄は別のところに住んでるわ。あたしはマンションに独り暮らし」
 独り暮らし、のところでまた男子生徒の低い唸り声が上がる。女子生徒はもっぱら彼女の兄に興味があるようだった。亜夜ほどの美形の兄なら、さぞかし美形なのではないか――というのが話題の中心のようだ。
 音楽室に移動するのも、クラス一丸という感じはまだない。一年のころから知り合いだったグループが元気よく出ていき、その後をまだクラスに馴染めていないシングルの生徒達が出ていく。その後を、亜夜と数名の女子生徒が続いた。
 鉄筋コンクリート四階建ての校舎を出て、渡り廊下を渡って別棟の通称「芸術校舎」へ向かう。ここは二階建ての別棟で、音楽室とコンピュータ教室、調理室と被服室が固まる専用校舎である。
 渡り廊下を、春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。女子生徒たちは必要以上に短くしたスカートのすそを気にしながら、木でできた簀の子状の渡り廊下をぱたぱたと渡っていく。
 亜夜と数名の女子生徒のグループが渡り廊下に差しかかったとき、校舎とグラウンドを繋ぐ通路と渡り廊下がクロスする交差点で、その事件は起きた。
 女子生徒の中のひとりが気づき、小声で「しまった」と言ったが、もう遅かったようだ。グラウンド側の隅でたばこをふかす集団と眼が合ってしまったのだ。
 その集団は、六名の女子生徒で構成されていた。いちばんチープな言葉を使えば「不良集団」ということになるのだろう。服装はこの高校の制服――紺のブレザーに白いブラウス、チェックのスカートに同じチェック柄のリボン――から極端に逸脱したものものではなかったが、化粧が極端であった。ケバい、とでも言えばいいのだろうか。高校生のメイクではない。水商売のメイクである。
 無言でその不良集団が近づいてくる。亜夜を含む女子生徒たちは、渡り廊下の真ん中で止まらざるを得なかった。
「なに?」
 眼が合った不良が、目を合わせた女子生徒に言う。その口からは、揮発性の異臭がする。たばこ以外にも、なにか吸引物を摂っていたようだ。眼の焦点が合っていない。気づけば、ポケットから折り畳みのナイフを出している。
 女子生徒は震え上がり、ひと言も出ない。他の女子生徒も同様に、硬直したまま何もできないでいる。渡り廊下は人が通らず、授業まではまだ時間がある。どうやら一限に「芸術校舎」を使うのは亜夜たちのクラスだけのようだ。声を上げることが可能だったとしても、刺されない、という保証はなかった。
「なにか言ったら?」
 ふたたび異臭のする口が開かれる。わずか数秒の出来事なのに、女子生徒たちにとってはスローモーションの世界だった。この悪夢からどうやったら逃れられるのか?
「授業に遅れちゃうわ。どいてくださらない?」
 その均衡を破ったのは、亜夜のひと言だった。女子生徒の輪から出た彼女は、異臭不良の前に進むと、もうひと言つけ加えた。
「無用なトラブルは大嫌いなの」
 毅然とした亜夜の態度が、異臭不良の何かのスイッチを入れたようだ。声も立てず、ノーモーションでナイフが亜夜に突き立てられた。
 亜夜はしかし、その上をいく素早さを持っていた。ナイフは亜夜のいない場所を突いていた。ナイフを握った右腕の上を滑るように、亜夜の右拳が高速移動していく。
 裏拳。
 異臭不良の身体は後方二メートルほどの、渡り廊下を囲むベニヤ板の壁に激突していた。
「てめぇ!」
 他の五名が亜夜を囲むように移動する。中のひとりがずいっ、と前に出てくる。どうやら彼女が「番格」らしい。
「やってくれちゃったね。ゆるさないよ〜ん」
 口調はおちゃらけていたが、眼は真剣だった。番格は落ちていた異臭不良のナイフを拾うと、刃の方を持って亜夜に言った。
「怪我で済めばいいけどね!」
 言うが早いか、番格はナイフを亜夜に投げつけていた。女子生徒たちから始めて悲鳴が上がる。
 まばたき一回分の出来事だった。
 亜夜は動かなかった。
 微動だにしなかった。
 しかし、ナイフは亜夜の身体に届かなかったのだ。
 外れてはいない。ど真ん中、心臓の位置にナイフは一直線に進んでいた。
 第一、番格と亜夜の間は二メートルと離れていないのだ。外しようがない。
 それでも、ナイフは亜夜の身体を傷つけることはなかった。
 番格にだけは、見えていた。
 亜夜の身体の真っ正面の空間にひびが入り、ガラスのように砕け散った瞬間が。
 その砕けた空間の後ろから、〈第三の腕〉が伸びてきたことを。
 そしてナイフはその指に弾かれ、軌道を上に九十度変えていたことを。
 どん! という音が、皆の意識を渡り廊下の天井に向けさせていた。
 蛇腹に曲がったトタン屋根に、ナイフが深々と突き刺さっていた。
 まばたき一回分の出来事ではあったが、何があったのかを正確に把握できたのは唯一、番格の女子生徒のみであった。
 天井を見て、ふたたび亜夜を見たときには、空間の割れ目も、〈第三の腕〉も、既に何もなかった。
 そこにあったのは、悪魔のように微笑む美少女・御厨亜夜の姿だけだ。
 冷や汗が顔面と言わず背中と言わず、全身を流れ落ちていく。それは他の不良少女たちのものとは根本的に違う恐怖のためだった。
 身動きできなくなった不良集団の間を、亜夜と女子生徒たちはそっとすり抜けた。不良たちは、それをただ無言で見ているしかなかった。
 番格の少女だけが、ようやく口を開いた。しかし、それは他人に聞こえるような声量ではなかった。自分に言い聞かせる、そんな口調でもあった。
「……ボーグ? 何であの子が……」

執筆:楽光一

つづく