静寂だけがそこに残っていた。
 街の中心部にあるだけあって、このスーパーは普段から常に賑わっていた。けれど、ものの十分と経たないうちに、何人も寄せ付けぬ戦場と化すなどと、誰に予想がついただろうか。
 『特売品』と辛うじて読める札の刺さっている売りカゴの品物の山から、魚のものらしき缶詰が滑り落ちる。ガコンと音をさせて銃弾の跡が残った床の上を転がった缶は、ピンク色の柔らかい体にぶつかり、その場で弾き返され回転しながら、やがて止まった。
 この場の誰もを制圧していた小さな体は、缶に足元を取られヨロヨロとよろけると、転げるように尻餅をついた。いや、実際はそう見えただけだろう。
 後ろの棚にもたれ掛かって座り込んだ小熊は、すでに元の表情を取り戻していた。破れかけた口元のために異様な顔つきとなってはいたが、つぶらな目は、主人が戻ってくるのをじっと待っている。
 持ち主の少女は、亜夜の腰にしがみ付くようにしてジーンズを掴んだまま離そうとせず、しきりに何か小さく呟いている。
「……ないで!!」
 ベアは悪くないの……。だから、ベアを連れて行かないで!!
 泣きじゃくりながら、訴えるようにまりは言った。
 少女のもう一方の手は、震えながら何かをもぎ取るように空を切っている。亜夜は正直、どう応えてやれば良いのかわからなかった。
 床に転がっているオレンジ、銃弾が真ん中に突き刺さり使い物にならなくなった鏡、壁にべっとりと塗りつけられた血痕。
 今ここで起こった出来事は、決して夢物語などではない。現に、あのピンク色をしたぬいぐるみ――ベアがいなければ、あの状況にたった一人きりで応戦していたならば……。
 ……亜夜はあの黒いバトルスーツを着た集団に、頭を撃ち抜かれていたはずなのだ。
 肉弾戦に対応する体術は少なからず心得ている。思うように動かせなかったボーグを、手足のように制御することも御厨から教わった。銃から身を守る訓練も施された。
 けれど、わずかな間に身に付けた付け焼き刃は、到底プロにかなうようなものではなかったようだ。
 助かる可能性が異様に低い確率であった事をあらためて知ると、彼女はそこで初めて恐怖を憶えた。
 自らの手を血で染めた経験のある彼女ですら、足を立ち竦めて今にも座り込んでしまいそうなのだ。まりの小さな体が小刻みに震えているのも無理はない。きっと、亜夜の何倍もの恐動に襲われたことだろう。
 子供が、危険から自分の身を守ろうとする防衛本能は、他の何よりも強い。というのを、何かの本で読んだ事がある。
「ベアは悪くないの! あたしじゃないの!」
 何かを請うようにまりは同じ台詞を繰り返した。
 まりがあの子熊を動かしたのは間違いのないことだろう。そして、動きこそぎこちないが、あの戦闘パターンはボーグRと類似している。けれど……。
 あたしじゃない、としきりに口にする彼女は、あのぬいぐるみを自分が操っている事に無意識下のうちで気づいているのだろうか……。
「ベアを連れていったりなんかしないよ」
 亜夜は、やり場がなくなったようにしきりに動かしている小さな手を取ると、もう片一方の手で少女の柔らかい髪を撫でた。 
「ベアは、まりちゃんと私を助けてくれたんだね」
 悠長な事を口にするような事態ではなかったが、まりの怯えきった心を安定させるのには充分すぎる効果を表わした。
 赤い目をしながら目を擦ると、少女は嬉しそうに微笑んだ。それからゆっくりと亜夜の手を離し、大好きな友達の元に駆け出した。あちこちから綿の飛び出している熊の縫いぐるみを拾い上げ、ぎゅっと腕の中に抱え込む。
 先ほどまで、あれほど獰猛に見えた熊はおとなしくまりの腕の中に納まっていた。油断する気は毛頭ない。いつまたさっきのように豹変するかわからないのだ。しかし、どこにでもありそうなぬいぐるみの目を見ていると、もう警戒しようとする気も起きない。
「ここはもうすぐ人が来るから、外に出ようね」
 あれだけ派手に破壊したのだ。人がやってこないわけがない。
「うん」
 まるでぬいぐるみとしゃべっているかのように熊の顔と向き合わせ、それから亜夜を見上げると、少女は大きく頷いた。
 ……本当に彼女が、先ほどの残酷な状況を作り上げたのだろうか……。 

「ちょっと染みるかもしれないけど、我慢してね」
 脱脂綿に消毒薬を浸し、少女の顔にできた傷の回りを軽く擦る。自らの手で掻き毟ってできた傷は、頬の所々に短い蚯蚓腫れを残していた。
 悲痛の表情を顔に出すまいと少女は必死で目を瞑り、手に小さな拳を握って耐えていた。傍らには、先ほど大暴れをしたピンク色の熊がかわいらしく座っている。
 人が来る前に裏口からどうにか抜け出すと、外は雨だった。亜夜は、まりを自分の部屋に上げた。小学校にも上がっていないような幼児が、顔中を血だらけにして歩いているのはどうしても人目につくからだ。
「うん、このくらいなら跡にならないよ。もう大丈夫」
「でも、ベアが……」
 所々から破れて綿の出ているぬいぐるみを見て呟く。
「ん、ベアもすぐ治るよ」
 言って亜夜は、鞄からソーイングセットを取り出した。シルバーリンクスに切り裂かれた口元は、今も異様な表情をしている。初めて持つ小熊のぬいぐるみは、手に取ると柔らかく、ふわふわと温かかった。けれど、腹を強く押した途端、手が震えた。
 この小さなぬいぐるみの中にも、ボーグと同じように、何か底知れぬものが詰まっている。
「今日みたいにベアがまりちゃんを守ってくれたことってある?」
 破れた布を器用に縫いあわせながら、亜夜は訊ねた。ベアが再生されていく様をずっと少女は見ていたが、きょとんとした表情を目に現すと、少し考えた後に答えた。
「ベアはいつもまりを助けてくれるの。けんたくんが意地悪したときとか、パパがおさけのんでまりのことぶつときも、いつもね、助けてくれるんだよ」
 言葉を探すように何度も瞬きをさせながら、まりは続けた。
「まりがたすけてっておもうとね。ベアがうごきだして、たすけてくれるの」
 縫う手を休めず、亜夜はまりの話に耳を傾けた。
「でもね……。ベアが、今日みたいにすごくあばれたことはないの。……いつもはね、あたしがやめてっておもうと、ベアもやめてくるの。だけど、さっきはいくらたのんでもやめてくれなかった。まりのいうこと、きいてくれなくなっちゃった」
 まりは、ボーグ――小熊を操る術を少なからず知っている。彼女は、彼女自身の知らない間に、このぬいぐるみを制御していたのだ。では、さっきの狂気めいた熊のの動きは、どこから生まれたものなのだろう。
 彼女の力が暴走したもの、なのか?
 もともと、この小さな少女にはボーグを動かしているという意識は恐らくない。最低限のバランスを保って、不安定な状態でずっと共存してきたのだろう。
「そっか、ベアはまりちゃんの一番のお友達だったんだね?」
 元の顔にようやく戻ったピンクの子熊を少女に返してやると、小さな手は嬉しそうにそのトモダチを抱え込んだ。
「うん、まりが生まれたときからずっといっしょだったんだよ。だからこれからもずっといっしょなの! ベアのこと、なおしてくれてありがとう。おねえちゃん」
 無邪気に頬を赤らませる少女を見ながら、亜夜は内心考えていた。
〈人形使い〉に復讐を誓ったのは、他でもない、彼女自身だ。けれど、ボーグJとその使い手、石坂有紀をこの手で殺めてから、彼女は正直、迷っていた。
 この復讐に、どういう意味がある?
 斬獄業火四将拳を体得して、今までに幾人かと一戦を交えて。彼女の中に残ったのは、空しさだけだった。
 それらに耐えられる自信がなくて、暁に考える時間をもらった。
 この子と戦えなんて、言わないよね? 暁。
 胸中で、兄に問う。必要に差し迫ったらあの人なら平気で言うかもしれない。
 どんな事を言われても、この子とは戦えない……。
 それよりむしろ、あの黒いスーツを着た集団のことを考えねばなるまい。彼女たちは〈人形使い〉――亜夜を狙っていた。ベアがボーグだとわかった今、それらのターゲットにまりも加わる可能性は充分ありうる。
 暁が、彼女自身の意志で彼の元に戻ると断言したのは、あの集団のことを指していたのか?
 足を踏み入れた以上は、後戻りはできない……か。
 自分が置かれている状況が、暁の言った通りの様な気がして、亜夜は苦笑した。
「どうしたの? おねえちゃん」
「ううん、何でもないの。……遅くなっちゃったね。そろそろ帰らないとね」
 この戦いが、復讐じゃなく、誰かを守ることであるならば、戦い続ける事ができるかも知れない。
 繋いだ小さな手の温もりを感じながら、亜夜は新たな戦いに身を投じる覚悟を固めていた。

執筆:Kan

つづく