M,Saginomiya
流麗な筆記体でさらさらとサインする優美な指の中年女性。艶やかな長い髪と華奢な体つきはともすればたよりなげにでも見えそうなものだが、依然威風堂々として上流階級の人間であることを無言のうちに物語っていた。身に纏っているブランド物のスーツは彼女のために仕立てられているのもあるが、そこらの女が真似てもけしてそのように着こなすことは出来ないだろう。もともと高級とされるこのホテルの空間はこの女性のためにあった。
後ろではぼろぼろの制服を着た少女が所在なげに身を縮めている。いぶかしげな視線を送りたいのは山々ではあったが、上客の連れとあってはあまりぶしつけに見るわけにもいかない。
「久しぶりねえ、東城」
「鷺宮様に置かれましてはお変わりなく、幸いと存じます」
「しばらく来ないうちに企業努力をするようになったのね、いいことだわ」
彼女が見上げる先にはインフォメーションボードがあり、カップルのためのペア宿泊フェアや、女性グループのためのアロマテラピーとジュニアスイートの宿泊セットなど、お得感を前面に出した宿泊プランのポスターが張ってあった。
「申し訳ございません。この不況とあっては」
言葉を濁すマネージャーの顔を見て、鷺宮女史はおかしそうに笑った。
「あら、何も責めているわけではなくてよ。仕方が無いわ、昔とは時代が違うのだもの」
マネージャーの東城自らが鍵を持ち、ベルボーイを従えて鷺宮女史と少女をエレベーターへいざなった。普通の数字ボタンのあるパネルの下部を外すと、そこへ鍵を差し込み、くるりとひねる。
うぅぅううん、とエレベーターは低い唸りを上げた。
階数を示す電子掲示板が数字ボタンに無い数字を見せた。
エレベーターを降りると、そこは他の階とはまったく異なる様相を示していた。心なしかベルボーイも緊張しているかのように見える。
絨毯から、壁に掛けた絵画まで、ありとあらゆる物が考えられる限りの最高のグレードでそろえてある。ただ、人の気配だけが無かった。
この階は利用してくれる主を待ちつづけていたのだ。
東城がドアを開けた部屋は、女性客用の宿泊セットで利用できるジュニアスイートなどとは比べ物にならない。もちろん、一流とされるホテルなのだからそちらが豪華でないわけではないが、それも一般人の感覚によればとてつもなく豪華な気がするというだけのことだ。この部屋は装飾具の一つ一つ、家具の部品にいたるまで、すべてが吟味されていて、豪奢などという言葉で表現しきれるものではなかった。
「あとで、若い女の子をよこして頂ける?」
「若い女の子でございますか?」
「買い物をお願いしたいの。若ければ若いほどいいわ。ほら、この子の服を買って来て欲しいから。この子に歳が近ければ、きっと好みも分かると思うのよ。ユリカも可愛い流行のお洋服の方がいいでしょう?」
身をちぢこめたまま、返事の仕方が分からないかのように、それでもこくりとユリカは首を縦に振った。
「それでは、のちほど新卒のものをよこしましょう。お食事の方はいかがなさいますか?」
「ええ、おねがいね。食事はとりあえず今はいいわ」
東城とベルボーイが下がると、鷺宮女史はくるりとユリカをふりかえると、やさしげに微笑みかけた。
「ホテルは休むためにあるのよ? そんなに硬くならないで、シャワーでも浴びていらっしゃいな」
ユリカはおずおずと躊躇いながら、ドアノブの一つに手をかけた。ここはどこもかしこもが特別なもので出来ているみたいで、汚い手で触れるのが怖かったのだ。
ドアを開けて、ユリカは歓声を上げた。
ユリカの開けたドアはベッドルームに続くもので、部屋の内装も然る事ながら、その部屋に置かれたベッド自体が、まるでグリム童話のお姫様が眠るようなものだった。キングサイズよりもまだ大きい天蓋付きのベッドが二つ並べてある。布団もふわふわと柔らかそうで、枕元に飾ってある花も新鮮で綺麗だ。初めてユリカの表情が緩んだ。
「あらあら、そこはバスルームじゃなくってよ。私もお風呂に入りたいから、一緒に入りましょうか」
鷺宮女史がユリカの肩を抱く。
「あんなに大きなベッドで眠るのは寂しくないのかしら」
うっとりと、ユリカは言った。
「ユリカが寂しいというのなら、私一緒に寝てあげてよ。二人で小鳥のように身を寄せ合って眠りましょう」
ふふふ、とユリカはようやく笑った。長い逃亡生活で凍り付いていた感情は溶けようとしていた。
バスルームもまた豪華なもので、広いバスになみなみとたたえた湯に薔薇が散らしてある。ユリカの張り詰めた若い肌に、水滴が結晶して転がり落ちるのを、鷺宮女史は好ましく見た。それに引き換え自分はどうだろう。
鷺宮女史は、姿見に己の姿を映し出してみた。
「醜いわ」
口の中でつぶやく。
かつて張り詰めていた乳房は重力に支配され、緩やかに下へラインを描いている。腰はまろく脂肪をまとって、女性らしい丸みを帯びている。皮膚は象牙色の脂が滲まんばかりに艶やかだ。客観的に見れば醜いどころか、扇情的なばかりの魅力にあふれて女としては限りなく美しい。
しかし、鷺宮女史にとって、美しさとは若さのことだった。ユリカの若い肢体がいっそ妬ましい。
ユリカの肉の無い腰を抱き寄せ、張り詰めて前へとせり出した胸をつかむ。まだ十分に膨らみきっていない胸は、こりこりと硬い。
「お、お姉様?」
ユリカはほんのりと頬を染めたが、抵抗はしなかった。
出しっぱなしのシャワーは床を叩きつづける。
「お楽しみ中のところを申し訳ない」
無粋な銃口が背後から突き付けられた。
「我々は闇狩隊、チーム紅蓮。私は隊長の三浦近衛(みうらこのえ)だ。高杉菊江嬢と、鷺宮博士夫人とお見受けする。われわれに同行願いたい」
「あらあら、ここはいつからあなたがたのような方が出入りできる程度のホテルになったのかしら。やはりしばらく来ないとグレードが下がるものね。まさかセキュリティまで下がっているなんて思いもしなくてよ」
「生意気な口を叩くな!」
鷺宮女史の口振りに、近衛の部下らしき女が声を荒げた。
「控えろ、伊賀瀬。生意気なのはおまえの方だよ」
穏やかに近衛は言い捨てた。
口振りが穏やかなぶんだけ、威圧感がある。荒事をむねとするはずなのに、髪が艶やかに長いのもいっそ不気味だ。
「あとで東城をしかってやらなくてはね」
「我々を招待してくれたのは、ここの社長御自らだよ。確か貴女の叔父上ではなかったかな。ほんの少し政府の影をちらつかせただけなのだが、実にご親切なかたでしたよ。それとも、何か後ろ暗いことでもおありですかね?」
鷺宮女史は肩をすくめて、両手を挙げた。
「私、昔からあのおじさまは気に食いませんでしたの。私の思いが通じていたのかしらね。ところでお洋服ぐらいは着せて頂けない? ユリカには新しい服を御用意願いたいわ。あなたがたのお仲間のおかげでぼろぼろなんですもの」
今度は近衛が肩をすくめる番だった。
「申し訳ないが、そのご要望にはお応えできない」
「無礼者!」
ユリカはぶるぶると、怒りに震えて怒鳴った。
「身内の恥をさらすようで恐縮だが、着衣を許していたところ、せっかく捕獲した七人の〈人形使い〉達に逃げられてしまったのだ。指揮系統も、施設もめちゃくちゃにされてしまったよ。どうもあなたがたは、〈人形〉や並外れた体力の他にも何か変わった能力を持っていらっしゃるらしいね。いくら、不思議な力を有していても、うら若い乙女が裸では逃げられないでしょう?」
無言のままに伊賀瀬以下四人の女性は、銃口を鷺宮女史とユリカへと向け立ち上がるように促す。
ユリカは思念を凝らし、〈人形〉を出そうと試みた。
「で、出て来てえ」
半ば泣きそうになりながら、ユリカはそれでも愛しい小鳥遊美波との絆を、頼っていた。
「〈人形〉でしたら、出てきませんよ。今までの経験からお分かりかと思うが、封じさせて頂いている。残念でしたね、高杉菊江さん」
嘲笑うでもなく、ひたすらに快活に近衛は言う。
「あたしを菊江って呼ばないでええええええ!」
ヒステリックにユリカは叫びながら、シャンプーのビンを投げつけた。近衛はひょい、と避けると通信機を取り出した。
「はあい、こちらチーム紅蓮の近衛です。〈人形使い〉の捕獲と共に、鷺宮博士の御細君に御同行願えそうです。ええ、まあそんなとこですわ。はい、これからホテルピアジェからそちらに直行いたします」
ふふふ、と伊賀瀬は笑った。
「逃げられるとは思わないことね」
「そんなこと言って、いち達には既に逃げられてるんじゃありませんの?」
鷺宮女史は口の端を釣り上げて笑い返した。
「きっさま!」
伊賀瀬が銃を振り下ろさんと持ち上げたところを、近衛はす、と押しとどめた。
「思い違いをするな伊賀瀬。我々はこちらに御同行願うだけだ。それ以上の判断は分が過ぎるよ。ほいじゃま、行きましょうか」
「あなたがただけでお帰りあそばせ」
にっこりと鷺宮女史は極上の笑みを浮かべた。心なしかその顔は変化を見せている。
「私には用がございますの。あなたがたにお付き合いする暇はございませんわ。おいで! ヴィオレッタ」
鷺宮女史の背後から天使が現出した。
「て、天使の〈人形〉!? 馬鹿な! 反応のあった〈人形〉は一つだった!!」
伊賀瀬はおののいた。〈天使〉と交戦したチーム闘竜門は、その後消息を絶っている。現場付近一帯に残っていたおびただしい血痕から、およそ生還は望めそうも無かった。
「そう、それは認識不足でしたわね。もっともあなたがたの下賎なレーダーなどに関知されないのは当然のことだけれど。私のヴィオレッタ、ボーグV。あなたがたが〈人形〉と呼ぶボーグのうちで二十二番目。数あるボーグのうちで最も強く! 最も美しいボーグをお見せしてよ」
鷺宮女史はもはや中年女性ではなかった。柔らかな脂肪を隠していた体は、薄く肉の削げた幼い肢体へと変化し、たわわであった胸もつんと乳首が上を向いているし、手足も棒のようだ。
「な、なんなんだ貴様は!」
動転した伊賀瀬は己の目が信じられないとでも言うようにわめいた。
「私は小鳥遊美波よ」
美波は満足げに姿見に映った自分を見た。やはりこの姿の方が美しい、まだ男もなにも知らなかったあの頃の。
かつて美波が鷺宮という名前だった幼い日、自分は恵まれているのだと信じて疑わなかった。訳の分からない、科学者を夫に持つまでは。
生まれつき心臓が弱かったせいもあり蝶よ花よと育てられた美波であったが、いざ年ごろになったときには、鷺宮の家にとって何の政略の手ごまにもならない厄介物に過ぎなかった。鷺宮の資産を狙う卑らしい輩ばかりが、美波を妻にと望んだが目つきからそれと知れた。父、満兼も美波が可愛いく末子であることも手伝ってか、誰の妻にならなくてもいい。女王たれと教え込んだ。美波には姉と兄が一人づついた。事情が変わったのは姉が誘拐されて殺され、また兄も死んだからだ。どちらも鷺宮の資産と権力ゆえの悲劇だった。 美波の姉を殺したのは夫にならんと思い違いをした男で、兄を殺したのは美波を妻にと望んだ男だった。美波はますます男に対して頑なになっていった。父以外の男はどれもこれも同じ獣に過ぎなかった。しかし満兼は立て続けに子を失い、気弱になり老け込んでいった。
恭三は一介の、何の後ろ盾も無い研究者に過ぎなかった。だから、よもやこの男の妻になろうなどとは、美波は思いもしなかったのだ。満兼が恭三を選んだのは彼がグレイオン博士と共同研究をしているパーソナルセキュリティーシステムに興味を持ったからだ。生涯を通じて個人を守り続けるボディガード、娘を殺されるかもしれない恐怖が不確かな研究に金を出させた。無論開発されれば強力無比の兵器となるだろう事もみこしてのことだ。何時の世も一番の利益をもたらすのは兵器である。
恭三が美波を妻にと望んだとき、満兼はむしろ喜んだ。恭三の開発しているシステムのすべてを、その代わりに提供すると恭三は申し出たからだ。
そしてなによりも大きかった決め手は、美波の心臓病も直してみせると言う。
可愛い子供が健康であれと願わぬ親がいるだろうか? ただその一言で美波は恭三の妻とされた、美波の意向には一切関心を払われることなく。
恭三は夫としては模範的ではなかったが、美波に対しては忠実な僕であった。ただし、男ではあったのだが。初夜の後、それまでには考えられなかった屈辱に、美波は恭三に汚れを知らなかった体に返せ戻せと当たり散らした。恭三はそんな無茶な要求にさえ、〈人形〉をもって答えたのである。
ボーグBの基本システムを中心として、独特のエネルギーシステムを持つボーグV。ボーグVは美波と生命エネルギーを共有している。その関係はさながら植物と動物の関係だ。もともと老化とは成長の1パターンに過ぎない。美波の成長エネルギーを糧としてボーグVは活動する、ゆえに美波は己の体の年齢を自由に操ることが出来るのだ。ボーグVの並々ならぬパワーは、すべて美波の限りない精神力から生み出されていた。そして何人かの場合、活用された体中の細胞は運動能力よりも隠れた能力、すなわちいわゆる超能力に強く作用する。美波の場合はもともとの体が弱すぎたせいもあり、テレパスとしての能力を顕現させていた。
「ねえ、伊賀瀬さん? あなた美しいわね。でも、時が経てば醜く老いさらばえますのよ、とてもおかわいそうだと思いますわ。だから、私が貴方の時を止めてさしあげてよ。こんなふうにね」
美波が紅蓮のうち一人に手を翳すと、ヴィオレッタも同じ姿勢をとる。その手の先にいた熊王ははっと身構えたが、その時に彼女はかつて自らの財産に固執した女のように白く輝く塩の柱になっていた。
「〈衝撃の白〉」
美波は無慈悲な女神のごとくに慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、湿気のこもったバスルームに塩の彫像はざらりとその姿を無くした。
「熊王!!!!!」
伊賀瀬は絶叫した。
「あらあら、私としたことが失敗してしまったわ。でも、代わりならまだあるものね。塩が溶けてしまうのなら、飽和させれば良いだけのことだもの。喜んで、きっと貴方ぐらいは形に残ってよ」
逃げる間も戦う間もなく、次々と女たちは塩の柱になり、溶けていく。四人目に伊賀瀬が彫像となったとき、彼女の表情は絶望の態をあらわしていた。
「あらら、せっかく形に残ったのに、ぶっさいくな顔になっちまったねえ」
近衛がこつんと叩くと、彼女の絶望は永遠にこの世から消え失せた。
「貴方なら私の部屋に飾って差し上げてよ」
「いやいや、私は芸術にはとんと疎くてね。彫刻なんざ鑑賞するだけで結構ですよ」
近衛は軽く肩を竦めながら、Dジャマーを操作してエネルギー遮断電波を切った。そのまま、ひょいっと美波に投げてよこす。
「人間でいたほうが面白いものが見れそうですしね」
空間がVによってではなく大きく歪む。
「ああ、やだあ! なんでまだお風呂にいるんよ。もお! やだあおニューのブーツが台無しやないの!」
突然湯船に現れた橘実優ががなった。
「そんな安物はまだよろしおす。うちなんて手描き友禅の一点物ですえ。ああ、洗い張りに出してもあかんやろなあ、どないしましょ」
「あんなあ、うちのかてオーパで並んで買った限定品や! 手にいれんのごっつう苦労したんやで! しかもあんたなんで自分だけ宙に浮いててるねん! ちっとも濡れてへんやん!」
「ああ、もう実優さんはやかましいてかなわんわ」
「今更持ち上げても遅いわ!!」
「まーた関西コンビの漫才が始まったよ」
「いいかげんにしなよ。実優もいちも」
「まーた、美波さんたらやったね。このお湯しょっぱいよお」
宙に浮いているいちと実優のほかは、ずぶぬれのままあきれて彼女たちを見上げているかてんでにしゃべっている。その数七人。シャドウブレーザーズの捕獲した〈人形使い〉に間違いはなかった。
「実優さんみたいな河内もんと一緒にされるのは心外どす」
「うちかていちみたいな気取り屋の京女と一緒にせんとって欲しいわ。まったく東京ものは関西と言えばいっしょくたにするんやから。大阪のお笑いを甘くみるんやないで!」
「ほら、実優さんはお笑いって認めてはるけど、うちは好き好んで笑い者になる趣味はありまへんのえ」
「だーれがわらいものじゃ!」
「あーはっはっはっは」
近衛は手を叩いて笑った。目には涙さえ浮かべている。
「こんな面白い子達に我がシャドウブレイザーズの面々は翻弄されたってわけね。あっはっは」
七人はシャドウブレイザーズと聞いて身構えた。
「おたく、あの方たちのお仲間ですの?」
「ひっとに、ばしばし電極付けたり電流流したりしといて笑ってんじゃねえよ」
「記憶なんて勝手に見よって、んもおすけべえなんやから」
近衛はまったく緊張感もなく、ひらひらと手を振ってみせる。
「私はたった今シャドウブレイザーズを止めましたよ。こっちのほうが面白そうですからね。仲間に入れてよ。鷺宮夫人? 私は面白ければそれでいいんですよ。それなりに足手まといになる気はないんですけどね?」
「人にあんなことやこんなことしといてそんな簡単にいくかい!」
「かまわなくってよ」
美波の台詞に実優は吉本よろしくずっこけた。
「ほら、お笑いやおへんの」
「み、美波〜〜〜〜〜、それでええんかい」
「君らにあんなことやこんなことや、そんなことあまつさえ、ええ! どんなこと! をしたのは私ではないわけだし」
近衛はにこにことしている。
「それにわたしはけっこうシャドウブレイザーズの情報を持っているよ。お役に立てると思いますがね」
しばらくしてホテルピアジェの最上階から、社長が原因不明の自殺をした。
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