「……それじゃ、復讐をやめるっていうのか?」
 ことさらに責める口調ではなかった。少なくとも、青年は冷静さを保ったままで尋ねていた。
 両性具有の『人形使い』石坂有紀と『彼女』が使うボーグJを倒した翌々日。青年は、亜夜と電話で話している。
 すでに石坂有紀の遺体は、亜夜とボーグRの手によって、絶対に人の目に触れない場所に『埋葬』されていた。
『やめるなんていってないわ。ただ、もう少し、ここにいたいだけ……動きたくないの』
 と、受話器が亜夜の弱々しい声を伝えてくる。
「そこでのミッションはもう終わったんだ」
 青年は指摘した。標的のボーグと『人形使い』を倒した今、亜夜をすみやかに次の標的のもとへ移動させなければならない。そのための拠点はもう選んであった。
『次の場所へなんか、行きたくない。もうこれ以上……』
 そこで、亜夜は言葉を途切らせた。
「これ以上、なんだ?」
 と、青年が優しいとさえいえる声音で問う。
『これ以上、人を傷つけたくない。殺したくないの』
「……」
 応える代わりに、青年はかすかに息を吸った。
 亜夜が身につけた「斬獄業火四将拳」は活殺の拳だ。堪えがたいほどの苦痛を敵に与えても、決して殺しはしない。人を活かすための拳だ。
 だが――
 最初に亜夜が倒した敵、ボーグGを操っていた西村夕は行方不明となった。おそらくは鷺宮の配下の者に『回収』されてしまったのだろう。
 そして、石坂有紀。
 亜夜は『彼女』の生を絶った。ナイフを有紀の胸元に突き立てたのだ。亜夜の手は、噴き出す血にまみれたことだろう。
 いつしか、青年は自分の手をじっと見つめていた。 が、すぐにかぶりを振る。
 青年は意を決したように、回線の向こうの亜夜に語りかけた。
「忘れたのか、亜夜。あの男が――鷺宮が、お前の父親になにをしたか。そして、お前にも。そして、おれ……」
 そこまでいって、青年は、唇をきゅっと噛み締めた。そして、かたわらに立てかけた金属製の杖に視線を向ける。
「……とにかく、すべては鷺宮にたどり着くためだ。そのためには、立ちふさがる者を排除していかなければならない。やつの創ったものを、破壊しなければならない」
『忘れてはいないわ、父が殺されたことは。だけど……』
 亜夜の声は、かすかに慄えていた。
『復讐に、それだけの値打ちがあるの? 殺された父の魂は一つ。その一つの魂を鎮めるために、わたしは何人殺さなくちゃならないの? 敵を倒すのは、わたしなのよ! 手を汚すのは、いつもわたしなの!』
「お前の父親の魂を鎮めるためには、たった一つの生命があればいい。鷺宮の生命だ。やつを仕留めれば、お前の父親は安らかに眠りにつけるだろう。だが、それまでは……」
 ふいに青年の声音が、鋼のごとき硬さを帯びた。「お前の父親は、決して眠りにつくことはない。理不尽に殺された者の魂を鎮めるためには、生きている誰かが、彼らになり代わって行わねばならないんだ――復讐をな」
『……』
 しばらくのあいだ、亜夜は黙りこくったままだった。
 青年は返事を待った。ややあって、受話器が少女の声を伝える。
『三日、待って。気持ちを整理したいの。復讐を続けるかどうか決めるのは、それまで待って』
 ――三日、か。
 青年は唇をゆがめた。
「いいだろう。はじめて他人の生命を奪って、動揺しているのも無理はないからな。だが、忘れるな……三日経ったら、お前は必ずおれのもとに戻ってくる。自分の意志でな」
『なぜ、わかるの?』
 亜夜は、青年に自信ありげな態度にいくぶん反感を覚えたらしい。ややトゲのある声で尋ねてきた。
「わかるさ――おれたちは『兄妹』だからな」
 それだけいって、青年は受話器を置いた。
 暗い部屋の中で、しばし身じろぎもせずに考えこむ。
 ――亜夜はカン違いをしている、と青年は思った。亜夜がやめる、やめないに関わらず、すでにコトは動き出している。中断することなど、誰にもできはしないのだ。
 復讐される者は、復讐する者に対して安穏と構えることはない。必ず反撃してくる。
 すでに敵は、亜夜がボーグを宿し、あの学校に潜入していることを知っている。通学経路もすでに調査済みなのだ。
 あと三日のあいだ、なにも起こらないとは考えにくい。必ず、なんらかの動きがあるはずだ。
 それは青年がなかば予期していたことでもあった。
 亜夜を囮に、敵をおびき寄せる。鷺宮が、楯突いてくる復讐者を放置しておくわけがない。しかもD−エンジンを身に宿しているとなれば……亜夜は格好のエサになる。
 やつらは、必ず食らいついてくる。
 青年は唇の端をゆがめ、屈託した笑みを形作ろうとした。その顔が、ふいに強ばる。
 ――だが、弱い。2ヶ月のあいだ特訓を受けて肉体を鍛えあげ、すでに2度の『実戦』を経てもなお、亜夜の精神はあまりに弱い。弱すぎる。
「この弱さが、命取りにならねばいいが……!」
 青年は闇の中で、そっとひとりごちた。
 ――青年との連絡を終えると、亜夜は部屋を出た。今夜も、外食ですませるつもりだ。
 当座の生活費は与えられているが、復讐を断念し、青年との関係が切れるとなると、どうすればいいのか。亜夜はそんなことを考えながら、歩いていった。
 父の死後、残された財産はささやかなものだった。青年に拾われるまで、亜夜が途方に暮れたほどだ。
 したがって、これから先、平凡な暮らしをしていくにしても先立つものが必要になるだろう。
 そんなことを考えているうちに、亜夜は駅への途中にある児童公園のそばにさしかかっていた。
 ……今になって、食欲がないことに気づく。ひと月近くも、この時間になると食事に出かけていたものだから、つい習慣でふらふらと町にさまよい出てしまったのだ。
 実際には、空腹ではなかった。なにしろ、亜夜は人間をひとり殺したのだ。『人形使い』石坂有紀を。
 食欲など、湧いてくるはずもなかった。
 どうしたものかと考えるうちに、亜夜はふと足を止めた。
 ……児童公園のブランコ。
 ほの暗い灯りに照らされた遊具に、少女がひとり、その身を載せている。年の頃は5、6歳といったところか。まだ小学校にはあがっていないだろう。右手をブランコの鎖に添え、左腕にはぬいぐるみのクマを抱きしめている。
 キィ、キィ。
 少女がブランコを漕ぐたび、金具がきしんでかすかに耳障りな音を立てた。
 ――なにをしているんだろう、あの娘。もう、子供は家に帰ってなきゃいけない時間なのに。
 亜夜は、かすかに身を震わせた。4月も後半にさしかかったとはいえ、まだ朝晩は冷える。
 よけいなお世話か、とは思ったが、亜夜は公園の敷地へ入っていった。ブランコの少女に声をかけてみる。
「……なにしてるの?」
 亜夜の問いかけに、少女は答えない。
「もう遅いから、お家へ帰った方がいいよ。じゃないと……」
 亜夜は声を低めた。
「おっかない人にさらわれちゃうかも」
「……うちのパパの方が、おっかないもん」
と、少女が答えた。幼児特有の、繊細なガラス細工を思わせる高い声だ。
「おさけのむと、パパこわいの。ママも、まりのことも、ぶつんだよ」
 ――どうやら、少女の名は『まり』というらしい。
「そう……そうなんだ」
 亜夜は、まりに近づいた。肉の薄い肩に、触れようとする――と、まりはビクッと身を遠ざけた。
「……!」
 亜夜は思わず息を飲んだ。
 虐待を受けた子供は、他者との接触を避けようとする。それどころか、相手が肩よ
りも上に手をあげただけで身をすくませる。叩かれる――罰せられるのではないかと怯えるからだ。
 だが、亜夜はそんなことを知るよしもない。まりが触れられることを避けたのは、自分の手が汚れているから――石坂有紀の胸にナイフを突き立てたばかりの『殺人者』の手だからだ、という不合理な考えに囚われていた。
 が、亜夜はかぶりを振って、その考えを追い払った。
 ――バカなことを。この娘が、わたしのことを知ってるわけがないじゃない。
 内心の苦笑を表情に出し、亜夜は少女に微笑みかけた。しゃがみこんで、子供と視線を合わせる。威圧的な大人は、決して子供の視点でものを語らない。子供を見下ろし、命令を下すだけだ。「怖がらなくてもいいんだよ。でも、まりちゃん――それだったら、おなか空いてるんじゃない?」
 と、問いかける。
 まりはしばし、つぶらな目をキョトンとしばたたいていたが、すぐに勢いよく首を横に振った。遠慮しているのだ。その証拠に、まりの身体の中心あたりから、きゅうっという情けない音が聞こえてくる。
「遠慮しなくていいんだよ。お姉ちゃん、これからごはんなんだ。まりちゃんも、一緒に食べる?」
「ううん、い、いいよ」
 まりはなおも首を横に振って、亜夜の誘いを断ろうとしていた。親のしつけが厳しいのだろう。だが、そのしつけを施したのは、どんな親だというのか。おそらく今、まりの家は修羅場になっているに違いない。酒を飲んで荒れる父親。なすすべもなく立ちつくし、夫に殴られるだけの母親。
 亜夜は重々しい溜息をついた。そして、コクリとうなずいた。
「わかった。タダじゃ、ごはんはあげないことにする。わたしの買い物のお手伝いをして。そうしたら、お駄賃の代わりに、ごはんを一緒に食べてもらうことにするわ。それだったら、いいでしょ?」
 と、『取り引き』を持ちかけてみる。
 ――ギブ&テイク。なにかを与えられたら、それに見合うなにかを返さなければならない。人を理不尽に殺した者は、その報いを受けねばならない。と、するならば――棲み家を与えられ、牙を与えてもらったからには、与えた者のために働かなければならないのだろうか。
 亜夜は胸の奥がチクリとうずくのを感じた。
「う……うん」
 ようやく、まりはうなずいた。小脇にかかえたテディベアを、ぎゅっと抱きしめる。
「そう。それじゃ、いつまでここにいてもしょうがない。買い物に行こう」
 亜夜は少女をうながし、立ちあがった。駅の近くのスーパーは、まだ開いている。久しぶりに自炊をしよう、と亜夜は思った。たまには、誰かのために料理を作るのも悪くない。
 そう――自分以外の、誰かのために。

執筆:紙谷龍生

つづく