まりの視線は、まだ泳いでいる。亜夜の眼を凝っと見る、ということができない。一度はうなずき、その腰を上げようとしたのだが、少女の身体はまだ躊躇しているように見えた。
 亜夜はその行動に、もうひとつ「押し」が必要だな、と考えていた。
「まりちゃん、いくつ?」
「5さい……」
 テディベアから左手を離し、ゆびを開いて見せる。この娘は左利きだ、と知れる。
「お名前、ぜんぶ言えるかなぁ」
 まりは少しだけ考えてから、遠慮がちに言った。
「もりた……まり……」
「えらいね。あたしはみくりや・あや。亜夜って呼んでね」
 まりの頬に、少しだけ赤みが差してきた。僅かずつではあるが、亜夜との会話に心を開こうとしているようだ。
「じゃね、亜夜おねぇちゃんがひとつだけ手品を見せてあげる。その手品を見たら、一緒にお買い物、いく?」
 この「手品」という突拍子もない単語に、まりは惹かれたらしい。俯きがちだった顔は少しずつではあるが上向きになり、その眼には、亜夜と出会った数分前にはなかった光が宿っていた。
「いい? よく見ててよ。一回しかしないから……」
 そう言うと亜夜はまりから十歩ほど下がって、大仰に手を拡げてみせた。ジーンズに、飾り気のない白いトレーナーの少女は、茶色く染めあげ、無造作に後ろで縛り上げた髪を軽く振りながら、ブランコに座る少女に言った。
「ぬいぐるみは大切なものよね?」
 突然の質問にまりは戸惑ったが、こくりと頷いた。
「じゃ、ぬいぐるみは悪いから、あなたの別の物をここから手を振れずに取ってみましょうか。ハンカチ、ある?」
 まりは左手にあったテディベアを右脇に抱えなおして、左ポケットからハンカチを取り出した。ピンクのテディベアが踊っている絵柄の、可愛らしいものだった。
「そのハンカチを借りるね」
 と言った瞬間、まりの左手からピンクのハンカチは消えていた。
 声を立てる暇もなく、まりはきょとんとしたまま左手を見つめていた。そして、弾かれたように亜夜を見る。
 亜夜の右手には、ピンクのハンカチがつままれていた。いま出したばかりで,折り目もきちんとついたままの、まりのハンカチである。
「ごめんね。すぐに返すから」
 そう言うが早いか、まりのハンカチは彼女が抱えていたテディベアのあたまにふわり、と被さっていた。
「どう? 面白かった?」
 亜夜の微笑みに、まりは感激の破顔で応えていた。

 亜夜は駅前のスーパーに向かって歩いていた。まりを連れての道中なので、その歩みは普段以上にゆっくりとしたものだったが、ここ数日間にない幸福感を、この歩く速度が彼女にもたらしていた。
 精神高揚剤、抗精神剤、抗鬱剤、抗不安剤……暁から送られてきた荷物の中に、何百錠もの薬が入っていたことは亜夜も知っていた。デパス、レキソタン、ワイパックス、トフラニール、トリプタノール、アナフラニール、そしてリタリン……しかし、亜夜はそれらを口にしたことはない。薬は好きではなかった。身体に機械を埋め込まれ、その調整のために何百種類の投薬を受けていたあの地獄のころを思うと、単純な胃腸薬すら呑む気にはならなかった。
 幸福感……抗不安剤に頼らなくとも、幸福感は味わえるのだ。細やかかもしれないけど、まりちゃんの手を、このちいさな手を握ることによって、許されているような――甘い認識かもしれないが――そんな気になっていた。
 このちいさな幸せがいつまでも続いて欲しい……亜夜は本気でそう思っていた。

『ターゲット確認』
『〈人形使い〉であることを確認できるか?』
『認識攻撃対象ナンバー2であることを確認。二人連れですが、よろしいのですか?』
『ミッションに変更はない』
『ミッションフォーメーションは?』
『場所は駅前のスーパー。もう店主には上の方から手を打ってある。アイは右、アヤコは左、エミコはバックルームで後方支援。エミコ、ミニミのマガジンは400でな。あたいの指示があるまでは撃つな。あたいとミカは正面から。全員、弾丸確認! ハンドガンには〈人形〉用の.50フルメタルジャケットマグナムを入れておけよ。まぁ、相手の〈人形〉がどんな形状であるかは不明だが、とにかく〈人形使い〉を殺ればそれがで終わりだ。ミカの狙撃で決まれば、即時撤収。そうでなければ流血戦は免れない。〈人形〉出現時にはリーインフォースドスーツに電源投入! 最大可動は15分間、それ以降はスーツをイジェクトして各自ポイントARSまで退避。以上、質問は?』
『ミカです。ターゲット視認後の作戦開始タイムは?』
『ターゲットが店内侵入後、野菜売り場と食肉売り場の門を曲がる、あの二方向にしか逃げ場がない角でやる。ミカの狙撃ポイントは天井から。入口方向――野菜売り場方向にアイ、食肉売り場方向にアヤコ。ミカ以外は撃つな。狙撃に失敗したら、アイとアヤコでフォーメーション2に以降。仮に角にあるバックルームへ繋がるドアへ逃げ込もうとしたら、追うな。あとはエミコのミニミが蜂の巣にするから、全員店外へ退避。他に質問は?』
『アヤコです。〈人形〉出現時も同じフォーマットですか?』
『フォーメーションは崩すな。ただし、ボーグが我々の装具を上回っていたら、おまえら四人はなるべく〈人形〉を移動させないように攻撃を加えつつ退避しろ。その間に、あたいがこのシルバーリンクスで〈人形使い〉本人をカッ斬る』
『アイです。客の移動は?』
『店内に「蛍の光」を早めに流させて、人間を出させる。それでも残っている場合は、天に祈れ!』
『了解、オクツ隊長!』
『あたいたちはこの社会を、日本を〈人形使い〉から守るための超法規組織だ。そのためには、多少の犠牲も止むをえない。肝に銘じな! 以上!』
 通信がとだえた。夜の闇に紛れ、政府の対〈人形使い〉対抗組織、非合法破壊部隊〈闇狩り隊〉シャドウブレイザーズ一の精鋭部隊――チーム・キャッズアイが動き出す。

「あれ?」
 店内に入り、手に篭を持った瞬間、店内に聞き覚えのあるフレーズが流れていた。本日の営業は終了いたしました……亜夜は携帯電話を見る。液晶ディスプレィには七時十二分の文字があった。このスーパーは八時までの営業のはずなのだが……特売で品物がなくなったので早期店仕舞いでもするのか? 驚くほどに、店内にひとは残っていなかった。
「ごめんねまりちゃん、必要な物だけさっと買って帰ろうか」
 十数分における歩行中、亜夜とまりは少しではあるが打ち解けていた。まりはこくんと頷くと、亜夜の後ろをけなげについていく。
 野菜……今日はつるむらさきとブラックタイガーのクイック・スティア・フライ、あとじゃがいもとねぎのスープにしよう。つるむらさきをひと束掴み、じゃがいもひと袋とリーキをひと株取ると、えびとオイスターソースを買うべく亜夜は野菜売り場と食肉売り場の角をあわただしく曲がった。
 左上、頭上でキッ、という金属のすれる音がした。
 亜夜は反射的にその方向を見る。野菜売り場の上――天井の一部に穴が開いている。本来はエアコンや換気用のものなのだろうが、そこに四角く暗い穴が開いていた。
 その闇の中から、何かが光った。
 店内の照明が必要以上に明るく、闇の中で何が起こったのかはまったく判らない。だが、亜夜の眼には見えなくても、ボーグRの眼には見えていた。
 7.62ミリ弾が、旋回しながら亜夜たちの方向に奔ってきていたことを。
「おらぁッ!!」
 瞬間、爆発的な力が亜夜を支配する。Dエンジンが急速放電し、亜夜はその肺の中の空気を総て吐き出させばならないほどに緊張していた。
 音は、何もなかった。
 ボーグRは、正確に7.62ミリ弾を親指と人指し指でつまんでいた。そして弾丸を空中に残したまま、次元の〈あちらがわ〉へと去っていく。こつん、と音を立てて落ちる白煙に包まれた弾丸。
 その間、わずか0.2秒。
 肉眼で確認するには難しい秒数だろう。
 しかし、〈闇狩り隊〉キャッズアイ隊長・オクツは指令を出した。
『フォーメーション2! 〈人形使い〉を射殺!』
 野菜売り場側からアイが、食肉売り場側からアヤコが踊り出た。手には使い込んでカスタマイズされた黒塗りのUZIサブマシンガンが握られている。ハンドグリップの下にロングマガジンを装填し、それに十時にもう一本のマガジンをクリップ装填した「虐殺のプロ」仕様のものだ。
 ふたりは一呼吸の間もなく、腰だめでマシンガンを乱射した。一本のマガジンに約40発の9ミリパラベラム弾、フルオートで斉射して、約5秒。マガジンを外し、反転させて十時に括り付けられているもう一本のマガジンを装填してコッキングレバーを惹くのに10秒。そして二本目のマガジンを斉射するのに5秒。
 銃撃戦は30秒で終わった。建物の壁材とありとあらゆる食材が飛び散り、ちりとも煙ともつかない浮遊物がスーパーの一角を覆った。すでにアイとアヤコはその場から引き、新しいマガジンを装填している。
 これで終わったなら、〈闇狩り隊〉の勝ちである。もし、後方支援のエミコがミニミから5.56ミリNATO弾を400発ばらまくようなことがあれば、まだ〈人形使い〉か〈人形〉が生きいてることになる。
 どちらなのか? ミッション終了なのか? それとも……。
 ヘルメット内のイアフォンにオクツのだみ声が鳴り響く。
『フォーメーション3! リーインフォースドスーツにパワーオン! きっかり15分間で離脱、みんな死ぬなよ!!』
「了解!」
 白煙が薄れゆく中、アヤコとアイの黒いラバー素材のスーツが膨らんでいく。人工筋肉と強化皮膚繊維に活力が与えられ,わずか九分間ではあるが、彼女たちは人間を超越する戦闘能力を持つことができるのだ。
 しかし、相手は人間ではない。機械仕掛けの殺戮兵器――〈人形〉なのだ。できれば〈人形〉とではなく、操縦者である〈人形使い〉を倒したい――ふたりともそう思っていた。
 ヘルメットのバイザーに仕込まれた暗視装置と温度差センサーが、なかなか止まない白煙の中をサーチする。もちろん、その間はふたりとも止まってはいない。野菜売り場の上に上がったり、壁づたいに移動したりしながら、様子をうかがう。
 温度センサーに反応があった。
 人間がふたり……少女と幼女のものだ。うずくまっているらしい。そのふたりを守るように、人間とは温度パターンの違う人間型のものが立っていた。
「!〈人形〉!」
 ふたりは同時に叫んでいた。160発の9ミリ弾をばらまいておいて、まだ〈人形〉を維持できるのか? 温度パターンで見る限り、少女にも幼女にも致命傷となる流血は観測できなかった。
 ふたりは叫ぶのと同時に、銃を捨てて跳んでいた。この位置からの銃撃は同士打ちになる可能性がある。ふたりの使命は〈人形〉を押さえ、隊長に〈人形使い〉の息の根を止めるだけの隙を作り出すことなのだ――アイは野菜売り場の最上段から、アヤコは壁を蹴って――。
 スカイツイスター・プレス!
 ラ・ケブラーダ!
 ふたりの身体は見事に〈人形〉に激突していた。体制を崩させれ、動きのままならない〈人形〉。がくりとひざを突き、動けなくなる。その刹那、アイは右膝を取って膝十時固め、アヤコは左腕を取って腕ひしぎ逆十時固め!
「カスタムフォーメーション! ミカ、エミコ、射撃待て! オクツ、行くぞ!」
 野菜売り場の下、ダンボールをストックしておく空間から飛び出したオクツ隊長は、怪鳥音を発しながら飛び出していった。
 手には刃渡り17センチはあろうかというサバイバルナイフ。彼女の愛刀、「シルバーリンクス」である。
 155センチという小柄ながら、驚異のダッシュ力で彼女の切っ先は〈人形使い〉の心臓を目指していた。
「取った!」
 オツク隊長は叫んでいた。間違いのない手ごたえがあった。
 しかし、その切っ先は心臓に達してはいなかった。
 はっ、としてオクツはヘルメットのバイザーをあげ、肉眼で見る。
 そこにあったのは、ピンクのテディベアだったのだ。
 まりの大切なのぬいぐるみ。片時も離さずにいた、最愛の友達。
 オツク隊長のナイフはたり刃渡り17センチある。だが、ナイフはテディベアの表層から五センチも食い込んでいない。渾身の力で突いたものなら、たかが縫いぐるみぐらいは貫通していてもおかしくないはずであった。
 オツク隊長の表情が豹変した。
「ラストフォーメーション! あたいを置いて、全員退避!」
 マイクを介してのものではなく、オクツ隊長の肉声だった。オクツ隊長は瞬間的にパイザーを下ろしてリーインフォースドスーツを起動した。
「隊長、どいててください!」
 壁がわの鉄の扉が開き、中にいたエミコが飛び出してきた。腰だめにしたミニミは超高速で5.56ミリNATO弾を射出する小型高性能マシンガンだ。400発のマガジン内の弾丸を総て発車すれば、乗用車一台分などは粉みじんになってしまう代物だ。
「立って! ボーグR!」
 亜夜が叫ぶ。しかしボーグRは人間に近い構造を取りすぎていた。アイとアヤコの関節技は、ボーグRの関節機能に僅かずつではあったが支障を与えていたのだ。振り払う努力はするが、簡単には外せない。160発の弾丸をひとつのこらず叩き落とすことができる驚異的なスーパーロボットであるボーグRも、「人間と同じ構造であるが故に」アイとアヤコを振り払えないでいた。
 それに、アイもアヤコも人間なのだ。カッターやナックルは危険過ぎて使えなかった。もともと、これらの特殊破壊兵器は〈人形使い〉が指令しない限り使えないのだが……。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
 亜夜は瞬時に体を入れ換えると、オクツの顔面を思いっ切り殴りつけていた。素手の拳では、特殊樹脂で出来た衝撃吸収ヘルメットの中のオクツにダメージを与えることはできなかったが、亜夜にはそれが精いっぱいだった。
 160発の弾丸の嵐の恐怖。まりちゃんを守らねばならないという気持ち。ボーグRを操る判断。何者か判らないが、つまり〈人形使い〉以外にも敵がいること……亜夜の精神は張り裂けそうだった。
 そして今、頼りのボーグRは関節を取られて身動きができない。眼前には筋肉粒々とした女、天井には(おそらく)スナイパー、後方にはでかいマシンガン……八方塞がり……。
 が、その均衡が瞬時にして破られた。
 鈍い音を伴って……。
「え……」
 オクツ隊長が絶句した。関節技をしかけていたアイとアヤコも茫然とし、ボーグRはその隙を塗って関節地獄から脱出していた。天井にいたミカも、使い古したM14カスタムライフルを持ったまま、下に降りてきてしまっていた。
 全員の視線が、後方――バックルームにいたエミコに集中していた。
 エミコの額には、深々とシルバーリンクスが突き刺さっていた。
「……あたしじゃない! あたしじゃないよう!」
 突然、弾けたようにまりが言った。
 全員の視線が、エミコからまりに映る。
 そこにあったものは――
 胸に大きく切り傷を開けられながら、まるで何かものを投げたかのようなポーズを取っているテディベアの姿であった。

執筆:楽光一

つづく