血で血を洗う戦場にあるまじき、奇妙な沈黙が空間を埋めていた。
滑稽な現実に、脳が一時的に情報処理をストップしたのかもしれない。
ピンク色の小熊――。
子供が見たら、歓声を上げて駆け寄るだろう。
社会に疲れた大人でさえ、その愛くるしい姿には微笑みを禁じえまい。
平和の象徴として、世界中で愛されているキャラクターが、これらテディベアだ。ミトンの手が、たったいま人間ひとりを死に追いやったばかりだといえば、誰もが悪趣味な冗談と、顔をしかめるだろう。
では、現実とは悪趣味な代物なのだ――。
「ちがう……あたしじゃないよ!」
悲壮な声が、止まった時間を押し進めた。
少女の鉛色の唇からあふれ出すのは、自己弁解の台詞だった。
己れを守り、周囲を拒絶する言葉の壁だ。
パパ、ママとも……。
「しらないよォ、あたしはしらないっ!」
絶叫する少女に、本来のターゲットであったはずの御厨亜夜は、その興奮を宥めようとするので手一杯だった。悲鳴をあげるだけでなく、伸びきった爪で顔を掻きむしる少女の姿は傍目にも痛々しい。
「……っ!」
戦士としての本能が、部隊長たるオクツを我に返らせた。
主人の集中力の乱れに感応してか、はたまた同胞の予期せぬ登場に驚いてか、ボーグRは沈黙を守っていた。
またとない、千載一遇の好機だった。
「…………」
腰のホルスターに手をやると、ごついハンドガンを抜き出した。
デザート・イーグル.50AE――オート拳銃の中でも、最大口径を誇る化物だ。弾倉内に七発収納された.50AE弾は、暴走車を射抜き、エンジンを一発で爆砕しうるだけの破壊力を有している。
一方、発射時にかかる荷重も尋常なものではなく、保持には平均以上の筋力が必要だ。2kgを超える重さのため、女性の手に余るのはいうまでもない。
リーインフォースドスーツは、それらの問題を完全にクリアして足りた。
「御厨亜夜!」
遊底を引き、初弾を薬室に送り込むと、振り返る頭めがけてポイントした。デザート・イーグルはシングル・アクション構造のため、遊底を引くなり、撃鉄をあげるなりせねば、弾丸が発射できない。
「――死ね!」
どんっ、と大気が低く震えた。
頭蓋を飛ばされた亜夜は、声もなく絶息した。
――そのはずだった。
「……く!?」
ピンク色の毛玉が、猛烈なタックルを見舞ってきたおかげで、狙いは大きくそれ、壁に穴を穿ったにとどまった。人工筋肉と、強化皮膚繊維よりなる強化スーツが、オモチャのように軋む。
「うっ、ぐ……」
肺から息を絞り出されながらも、テディベアめがけて銃口を定めたのは、プロの仕事と賞賛すべきだった。
「死ね、バケモノ!」
空気を引き裂きながら飛んだ銃弾は、今度こそ間違いなく目標にヒットした。
フルメタルジャケット弾は、丸まっちい頭を直撃し、ヌイグルミは大きくのけぞって、力なく床にくずおれた。ボーグ用に選別された銃弾――それを近距離から喰らった以上、無傷ですむわけがない。
「バカな……」
地面から身を起こすと、小熊はコメカミの焦げ痕に手を当てて、やれやれとでもいうように、小さく首を振った。
奇妙に人間くさい仕草に、悪寒が背筋を這いのぼってきた。
「…………」
戦闘に望む前、全隊員は精神調整剤を嚥下していた。平時にはメンタルトレーニングも欠かさない。シュミレーター相手に、ヘドが出るほどの苛烈な模擬戦をこなし、本物の〈人形〉が相手であろうと、引けを取るまいと信じていた。
よもや、ピンク色の小熊に、プライドをズタズタにされようとは……。
「ク、ケケケェ!」
逆Y字になった、小熊の口がゆっくりと広がっていくと、最終的に三日月の形で止まった。真っ赤な口腔には、人喰い鮫そっくりの歯が密生しており、よどんだ殺意にきらめいている。
「……隊長!」
叫びに目を向けると、UZIを構えたアヤコが立っていた。
九ミリ・パラベラムは、人体相手ならば抜群の破壊力を誇る。アメリカ軍が、長期のトライアルの結果、正式採用したのも優秀さを認めてのものだ。
ただし、相手は異常心理の産物だった。
「ケケケッ!」
小熊は思いがけない敏捷さを発揮して、アヤコに向かって駆け出した。歩幅は小さく、小走りなものだから、異様というしかない。
「いかん!」
引き金を引ききるより早く、異影が躍りかかった。
人工筋肉が引きちぎられる嫌な音がし、ついで絶叫が迸った。政府お抱えの科学者チームが長期間をかけて開発したスーツが、段ボールのように易々と引き裂かれていく。この光景には、白衣も身もだえせずにはいられまい。
「こ、こいつ……!!」
肩の痛みに耐えつつ、引き剥がそうと手を伸ばす。
小熊は指先をスルリとかわすと、呆然と立ち尽くすアイへと狙いを変えた。
「コード2……そうなのか?」
奇怪な光景を前に、オクツは呆然とつぶやいた。
怪談じみた話が、記憶の淵から浮上してきていた。
シリーズ原型となった数体のプロトタイプには、正規ナンバーにない様々な特殊能力が付与されていたという。わけても、ナンバーBは絶大な戦闘力を発揮した半面、防衛本能の暴走によって、末路は廃棄処だったそうだ。
「しかし……」
ボーグBが健在だったというのは構わない。しょせん、情報に絶対はありない。
ただし、もだえ続ける少女が〈人形使い〉というのは、合点のいかない話だった。なんといっても、少女は五歳そこそこの外見だし、研究の黎明期と照らし合わせると、計算が合わない。
「た、隊長……っ!」
悲鳴に我に返った。
もはや、チームの敗北は素人目にも明らかだった。
部下のひとりを失った時点で、撤退を決断しておくべきだったのだ。
「……すまん!」
エミコの亡骸へとダッシュすると、額に残されたままの愛剣に手をかけ、ズルリとした感触に顔をしかめながら、一気に引き抜いた。
「撤退だ! エミコを担いで引け!」
鋭く命令を下す。
「隊長は!?」
「あたいは時間を稼ぐ――早く行け!」
腰を落とし、右手一本でナイフを構えた。
一方、自由になる左手でもって、ベルトを飾るチェーンを指先に絡め取った。流行のデザインに整えられてはいるが、彼女が戦場に持参する以上、ただのアクセサリーであろうはずもない。
「さぁ、こい!」
シルバーリンクスを構えて叫ぶ。
スーツの活動限界は削られてきており、長期戦はありえない。
一か八か――死中に活を見出す覚悟だった。
「くらえ……!!」
駆け寄ってくる毛玉めがけて、指先で一回転させたチェーンを投じた。銀色の軌跡をあとに残しつつ、鎖はピンクの毛皮に絡まると、足を取られた小熊は勢いよく床を滑った。ジタバタともがく。
「かかった!」 分子結合を強化されたチェーンは、宇宙開発事業の過程で生み出された産物だ。並みのナイフでは文字通り、歯が立たない。
「もらったァ!」
渾身の力を込めて、シルバーリンクスを振り下ろす。
鋭利な切っ先は、寸分違わず、小熊の口腔へと突き立っていた。
正確すぎたのかもしれない……。
「この……バケモノめ!」
金属的な鳴りは、ブレードと、ノコギリじみた牙とが拮抗する音だった。あまつさえ、小熊の全身を絡め取った鎖がちぎれ飛ぶのを目にして、黒い死に捕らえかけられている現実を認めないわけにはいかなかった。
「……ぅっぐ」
衝撃が腹部に走り、床へと投げ出された。
「ここ、までか……っ」
ヘルメットを剥ぎ取ると、ポーチのひとつに手を伸ばし、清涼飲料水そっくりの銀缶を取り出した。死を代償にして、彼女があがける最後のチャンスがそれだった。
「さぁ、来なよ!」
床から挑発し、銀缶の頭にみえるリングに指を通す。
リングを引き抜くことにより、三〇〇〇度の炎が一帯を満たし、生者ともども、〈人形〉どもを鉄クズに変えるだろう。
「……なに!?」
美しいシルエットが、死神の侵攻を阻んだ。
ボーグRが、自らの身をもって、致命の牙を食い止めていると知ると、さしものオクツも驚きを隠せなかった。かすむ視界の奥に、決然たる表情の亜夜の顔を見て取って、自然と苦笑いがもれた。
「とんだ、甘ちゃんだよ!」
焼夷手榴弾を元の場所へとしまうと、ダメージを感じさせない、滑らかな動きで立ち上がった。
「御厨亜夜!」
抹殺対象の名を呼ぶ。
ハッとしたように、少女が驚きのまなこを返してきた。
「今日はいったん引く……が、すぐにリターンマッチを挑むぞ!」
燐とした声で宣言する。
この場はチームの完敗だった。
ただし、この敗北は教訓として生かされ、彼女たちはもっと強くなる――。
「また会おう!」
短い敬礼をひとつ送ってみせる。
黒い強化服は、女豹のように雨の中へと消えていった。
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