7 霧の中の不思議な輩
ここ数日、わりと良い天気が続いていた。嫌なことも忘れさせてくれるくらいの、である。
ぽかぽかと暖かい陽気につられて、つい飯島は学校をサボった。桜の散った緑の公園で彼は、大きく一つ伸びをしてベンチに座った。
もうすぐゴールデンウィークである。山崎里美のAP入りの決定した今、新入生も数は少ないが一応確保出来たし、ごたごたした事件もあの後全く起こらなくなり、飯島の心はやっと春を満喫出来る状態になっていた。
小鳥がさえずり、新緑が風に揺れ、電車の音が僅かに聞こえる。人通りは少なく、通る者は猫ですら皆笑顔である。飯島も、何故か微笑んでいた。数日前の事件が、まるで嘘のようであった。
飯島はジャケットを脱ぐと、ベンチの傍らに置いてポケットを探った。そしてすぐ、舌打ちした。
「あちゃ、サイフ忘れてしもた……」
定期券入れの中も探るが、何故か今回だけはいつも持っているはずの非常用金銭がない。テレホンカードやオレンジカードでは、ジュースは飲めない。飯島は、仕方ないという表情で青空を見上げた。
実際、抜けるような青空だった。ここ数年、空などのんびりと見ることはなかったな……何故だろう。飯島はふと考えた。青空を眺めることって、意外と重要なことなんじゃないのかな……。
突然、びゅっと風が吹いた。生暖かい風だ。古新聞と砂煙が飯島を襲った。思わず顔を覆うが、攻撃そのものを防げるはずもなく、飯島は砂まみれになる。
口から砂を吐きながら、飯島はせっかく忘れていた数日前の嫌な事件を思い出してしまっていた。
山崎里美の誘拐未遂事件である。
犯人をE研と断定してしまうには少々状況証拠が少なすぎるし、飯島にも正直、引っかかるところがある。しかし他に敵対テレパスがいるとは考えにくいし、もしいたとしたら大事である。なるべくなら、大事の方は考えたくない──というのが人間心理というものだ。飯島も、後者を否定したかった。
そんな飯島の背後から、声をかける人物がいた。
「やぁ飯島君。確か新聞学科は二限は語学じゃなかったかね?」
飯島が振り向くと、その人物は微笑みながら飯島の方を見ていた。長い髪とほっそりした顔、優しい目つきと柔らかな物腰──E研に所属する唯一のAP理解者である、小川恭一その人であった。
「小川さん……どうしてここに?」
「たまたま通りかかっただけさ。隣、いいかな?」
小川は飯島の隣にかけると、一本のポカリスエットを渡した。礼を言う飯島。と同時に、飯島は少しムッとして言った。
「小川さん、読んだでしょ。俺の心」
「いや、読むつもりはなかったんだ。ただ、君の心はかなり離れた所でも感じるんだよ。パターンが特有の物だからね」
小川はふふっと笑った。小川の読心能力は、AP・E研合わせた能力者の中でもピカイチである。E研一の大人であり、また紳士であるため、その人間性は高く評価されており、同年のAP元部長である五六朋起や元副部長である藻間隆とも意気投合し、一時はAPとE研の合併も考えられたほどであった。
「でも、なんで小川さんはE研に入られたんですか? あなたみたいな人こそ、AP向けだと思うんですけど。これは石原さんにも言えることですけど」
飯島のこの質問に、小川は青い空を眺めながらゆっくりと答えた。
「……君の考えているほど、E研は悪いサークルじゃない。少しばかり学校寄りなのは認めるがね、もう昔みたいに総長のボディーガードなんかはやってないし、補助金も普通のサークルと一緒だよ。ただね、僕がE研に入った理由はね……」
タバコをくわえ、ライターをつける。白い煙が青い空に染みていく。飯島はポカリの缶を膝に置いて待った。
「……そう、僕がE研に入った理由はね、五六や藻間と対決したかったからなんだよ。五六はPK、藻間はアポーツで僕とは能力が異質だけど、だからこそ能力対能力じゃなくって、別の部分で能力を利用して対決したかったんだ。一緒のサークルじゃ、駄目なんだ」
一口吸っただけのタバコが、少しづつ白い灰に変わっていく。飯島のポカリの缶には、もう内容物は残っていなかった。
「あんまり深い意味はないんだけどね……別々のサークルに入ったからって、結局何の対決も成されなかったからね。何て言うのかな、『馴れ合ったら腐る』ってのか、『一緒にいたら負ける』ってのかな。そんな感じがあったんだよね。五六も藻間も同じ予備校の仲間だったから、本当に理解しあってたし、五六とは四年間ずっと同じ教室で講議受けてるわけだしね」
灰は完全に地面に落ちていた。フィルターの焼ける嫌な臭いがする。
「じゃあ、石原さんも雪崩山を意識して?」
じゃないかな、といった意味のうなずきを小川は返した。読心能力を持つ小川のことである。石原麗子の心も覗いたことがあるのかもしれない。
「小川さん、もう一つだけ教えて下さい。何で広樹や安藤に代表されるような、薄暗くてダーティーなイメージがいつもE研について回るのですか? 過去の伝説化された行為以外にも根があるように感じられてならないのですが」
小川は少しだけ考えるような仕種を見せ、やがて立ち上がって公園の出口の方へと二・三歩進み出た。飯島が急いでついて行こうと立ち上がると、小川はその行動を制するかのように右手を飯島に向かって開いて出し、二本目のタバコをくわえて火をつけた。
「それに関しては僕にも分からない。広樹も安藤も、僕が部長をしていた去年はあそこまで酷くなかった。今年の春からだよ、特に安藤の方は。何が原因なのか、皆目見当がつかない。原因を突き止めることによって現状が改善されるのなら、僕も探ってみてもいいけどね」
「お暇でしたら、よろしく」
飯島は、小川の後ろ姿にそう言って別れを告げた。あえて里美の一件を言わなかったのは、推測で先輩を動かすわけにはいかないと判断したからであった。小川は黄色いジャンパーを小脇に挟みながら、ゆっくりと公園を出て行った。
結局、飯島はその後三・四限の授業に出、夕焼けの中を一人歩いて駅に向かっていた。珍しく、誰一人APの人間に会わずして。洗濯物の溜まっていた彼は、喫茶セレファイスに寄る時間も惜しんで真っ直ぐ家路に着くつもりであった。
赤い空気に染まった人々の波をかいくぐり、ざわめく都会の雑踏をすり抜けながら、飯島の心は洗濯物一色に染まっていた。そろそろ洗わないと限界だ、洗剤はあったかな……そんな飯島の視界に、一つの見慣れた顔が飛び込んできた。
「飯島……さん?」
「ありゃ、お久しぶりだね山崎さん」
里美がぴょこんとお辞儀をした。二人は流れから外れ、駅舎の外に出た。
「お久しぶりって言っても、三日ぶりくらいか。何か妙に懐かしい感じもするけど」
「そう……ですね」
里美の赤面癖は治っていなかった。どうしてここまで飯島の存在が自分をときめかせるのか、皆目見当のつかない里美であった。決して「恋」は初めてではないはずなのに……。
そんな里美を見ていた飯島の頭の中に、ちょっとした思いつきが浮かんだ。自分が洗濯をしている間に、彼女に夕飯を作ってもらうというのはどうだ? ちょっと虫がよすぎるとは思ったものの、言って断られたらそれはそれでいいと飯島は考えていた。
「あのさ、今夜ヒマ?」
あまりの唐突な質問に、里美はより赤面した。里美の頭の中には、「今夜」の予想されそうな、まさにピンからキリまでの出来事が幾つも幾つも走り巡った。想像力をたくましくするなどといった表現以前のものであった。唯一の救いは、飯島の表情がいつもと変わらず穏やかで清々しいことであった。
「あ、空いてる? よかったらさ、ウチに来て一緒に飯を食わないか? ちょうど故郷からウナギの蒲焼きが届いてるんだよ。もう捌いて焼くだけになってるんだけどさ、一人で食うには多いし、かと言って大食漢と一緒じゃあ一人アタマが少なくなっちまうんだ。ウナギは平気?」
里美は大きくうなずいた。実際、ウナギは平気であったが、それより何より飯島のために堂々と食事が作れることの喜びの方が、彼女の中では勝っていた。
「よし、んじゃ決まりだ。行こか」
飯島は心の中で自分に言い聞かせていた。別に家事を手伝わせようってわけじゃない、一緒に飯を食うだけだ。それだけ……。
「やっぱり洗濯は明日にするか」
「え?」
飯島はその問にしらんぷりを決め込んだ。
人の波に押し流されながら、二人はオレンジ色の電車に詰め込まれていった。やがて、都会の戦士たちを乗せた列車は、ひとつふたつ大きく咳き込みながら走り出した。
強く押され、密着状態のまま飯島と里美は幾駅も過ごさねばならなかった。新宿までの辛抱とは言え、この混み方は尋常ではなかった。里美の周りに手を伸ばし、必死に防護壁を作る飯島だが、周りが全て敵では勝ち目はない。やがてその腕の輪は縮まり、飯島の努力に反して里美を締める形となってしまっていた。
この虚しい努力が、どれだけ里美に理解されているのかは計り知ることも出来ないが、飯島としては「女性への(おせっかいかもしれないが)エチケット」のつもりでしていた行為である。彼女が初めてのことではない。はっきりと反論の来るまで、飯島はその手を引っ込めることはしないつもりであった。
「虚しい……」
つい、口に出てしまう。頭頂部にそんな声を聞き、里美は自分の恋愛経験の少なさに苛立っていた。この行為は、一体何を示すものなのか? 列車に乗ってから数分間、彼女はそのことばかりを考えて黙りこくっていた。素直に嬉しがっていいものか、それとも自分の考えが甘いのか……自分の頬の熱で飯島のジャケットが温かくなっているのを知って、里美は自分が思いっきり少女マンガしていることに気づいた。
「何でもいいや」
里美のその吐息にも似た声が自分の胸に向かって発せられたことを、飯島は知らない。
どしん、と列車が大きく揺れた。この中央線の線路は、使用頻度や乗客運搬数が格段に多く、線路のあちこちで歪みが生じていた。列車運行に直接の被害の出る前にJRが定期点検でこの歪みを発見し、事前に修理・補強しているからこそ、日本中の列車は線路そのものを原因とした事故を起こさずに毎日乗客を安全に運ぶことが出来るのである。JRの中でも、この区内の列車事故は命取りとなるため。事故の未然防止はほぼ完璧なものとなっている。理論上だけでなく、実際にもそうである。
ただ、事故は過去のデータを積み重ね、危険な箇所を事前にチェックしても、乗務員の過失を考慮に入れたとしても、もっと頻繁に、そして突然に起こるものなのである。そういう意味では誰の責任でもないし、誰も責任は取れない。
再び、どしん、と列車が揺れた。
毎日乗っていれば、この辺りで来るぞというのが感覚で分かる。この辺でカーブのGが来るぞ、とかこの辺で運転士はいつも急加速するぞとかは、ほとんどリズムで分かる。飯島にも、この二つのどしんは了解済のことであった。別段、列車が転覆するとかそういったことは考えなかった。彼の頭の中は、里美と自らの腕の位置との関係に、ほとんど使われてしまっていたのだ。いつもの、カンの鋭い飯島であったなら、ニ度目のどしんで気づくはずであったし、気づくべきであった。
三度目のどしんが来た。続いてGが掛かってきた。ここで初めて、飯島は気づいた。三度目? カーブの前に、三度目のどしん? そして彼の腕が自然にほどけ、里美の身体から離れた。ゆるいカーブにも関わらず、Gは強烈であった。
「飯島さんッ!」
その声が聞こえなかったら、飯島の命はなかった。Gの方向、列車の右側のドアが音もなく開き、飯島の身体は周囲にいた乗客と一緒に、そのドアの外側に放り出されてしまっていた。線路上に、まるでチューブからにょろにょろと押し出されたマヨネーズの様に乗客の塊が落ちていった。一人や二人ではない。十人単位の人々である。列車は急制動を掛けた。乗客は混乱し、客車内には押されて失神する者も出た。「大丈夫だ」
飯島は、かろうじて押し出しの横の流れから脱出し、ドア脇の手すりを右手で握って耐えていた。里美も急制動の縦の流れから外れたドア寄りの所にいたため、圧死せずに済んでいた。
「何だってんだ、一体……」
「事故よ、大事故だわ」
反対路線から対向列車が来なかったのが、不幸中の幸いであった。
「誠にあい済みません、乗客の皆様、そのまま暫くお待ち下さい……間もなく救護隊が最寄りの駅から参ります……」
車内アナウンスが流れる。どさくさは、飯島の最も嫌いなものの一つであった。幸い、周囲は混乱している。原因糾明は警察なりJRなりに任せればいい。自分にも、里美にも怪我一つなかったのだから。
飯島は突然里美をぎゅっと抱き、小声で耳元にささやきかけた。
「いいかい……跳ぶよ」
二人の姿は、混乱した事故現場から消えた。その一部始終を、黒いコートの男はお堀の対岸の歩道で見ていた。その顔には深いしわが刻まれていたが、そのしわは老齢の成すものではなく、怒りによるものであった。強く唇を噛み締め、男はコートを翻しながら何処へともなく去って行った。
「勇次さん、夕飯の支度が出来ました」
雪崩山は、少し不機嫌そうな口調で言い返した。
「あのね、母さん。そのさん付けだけはやめてくれないかな。普通さ、親子ってさ、もっと砕けた呼び合い方をしない? 俺なら『勇ちゃん』とかさぁ」
雪崩山の母親は、ふふっと笑いながら、「長い間呼び慣れてきたんですもの、そう簡単に直せるものですか」といった趣旨の笑顔を雪崩山に向けた。雪崩山もその顔を見て微笑んだ。
この洋館風の広い屋敷の中には、もう雪崩山勇次とその母・圭子の二人しか住んでいない。以前は毎日のように大広間で心理学のディスカッションが行われ、各国の学者が泊まり、学生たちが酒を呑み、声の途切れることのなかったこの雪崩山邸も、雪崩山三郎教授が死去して三年、火が消えたようにその中は冷え切ってしまっていた。 それを寂しいと感じるか、時代の流れと感じるかは個人の自由であるが、雪崩山はそれを屋敷の休息期と見ていた。この屋敷には幾つもの思い出が詰まっている。その思い出を保存するためにも、この屋敷には休む時が必要なのだ、と彼は思っていた。今がその時なのだ。
「母さん、少し待ってくれるかな。もうちょっとでレポートがまとまるから」
母親はうなずき、部屋から出ていった。雪崩山は一つ大きな伸びをして、眼前にある窓を開いた。夕焼けの赤い光に染まった庭の木々が、雪崩山を優しく迎えた。決して庭面積は広くないが、木々の豊富さは町内一と言っても過言ではない。雪崩山は、窓を開いたままで再びレポートに向かった。
十畳近い広さのある彼の部屋の隅のステレオから、流されていたFMの音楽が途切れた。臨時ニュースらしい。雪崩山は、ただぼんやりとそのニュースを聞いていた。JR……中央線……乗客……重軽傷……しばらく後、FMは再び音楽を鳴らし始めた。雪崩山は筆を休め、窓の外を見ながら言った。
「知ってる奴が乗ってなきゃいいけどな」
しかし、その眼はレポート用紙には戻らなかった。彼はその眼をこらした。窓の外が、先程見た時の様子と一変していたからである。赤い空気も、緑の木々も見えない。
「白?」
白い。
霧だ、と理解った。四月の、暖かい夕焼けの町並みを霧が覆っているのだ。雨も降っていないし、大量の水の散布が行われたとは考え難い。では、この膨大な水分は一体どこからやって来て、我が家の周囲をこんな短期間で覆ってしまったのか? 夕焼けの空すら、全くその姿を見ることは出来なかった。雪崩山は、その眼前の光景に不審を抱いた。幻覚かとも思われたが、そうでもないらしい。雪崩山は、外に出てこの霧が本物かどうか、確かめるつもりで部屋を出た。
「!?」
これには雪崩山も驚いた。屋敷の中、廊下にまで霧が充満していたのだ。
靴を履き、庭に出た雪崩山は、これが正真正銘の霧であることを確認した。そして、この異常な程に濃くて重い霧に、再び疑問を感じていた。霧を人為的に作り出すのはたやすいことだが、装置が必要となる。耳を澄ましてみても、異常な機械音らしきものは聞き取れない。
では、自然発生か? それも妙だ。霧とは、水分のない乾燥した所でも発生するものなのか。しかも、突然、こんなに濃いものが、一瞬きのうちに出来るものなのか。霧とは、締め切った家の中にも同じ濃度で侵入してくるものなのか。どれも、少々おかしい。となると、この霧は一体どこから来たのか?
「誰だ!」
庭の木々の陰に人影があった。雪崩山は素早くその方へ向かったが、既に人はいなかった。視界がひどく悪く、五メートル先はほとんど見えない。ただ、気配だけは確かに存在していた。
ずん、と後頭部に鈍痛が走った。殴られたものとは違う傷みだ。脳に直接響いている。雪崩山はその場にうずくまり、周囲の気配を読んだ。脳への直接攻撃……? 雪崩山は数日前の事件を思い出していた。山崎里美誘拐未遂事件。あの時、飯島はホールでテレパスに半催眠状態にされた。これがその感触なのか? 脳への直接干渉ということは、敵はヤツらなのか?
『山崎里美は君たちの手におえる代物じゃない。我々が管理する』
脳髄に直接干渉する声。飯島のものと同じに違いないと雪崩山は思った。雪崩山は再び気配を伺い、テレパスが自分の周囲にいることを願って周囲を見渡した。しかし、悲しいかな雪崩山はサイコキノ、実際テレパシーの発信者はすぐ側にいたのだが、テレパスの姿を発見出来る程カンは鋭くなかった。
『山崎里美は君たちの手におえる代物じゃない。おとなしく渡せばそれでよし、渡さねば君たちはおろか山崎里美を含む周囲の人間にも迷惑がかかる』
再び脳髄に直接話しかける声。雪崩山には、成す術もなく叫んだ。
「断るっ! 貴様らなんぞに彼女は渡さん! あの娘は我がAPの救世主なのだ!!」
『そうか……では、致し方あるまい』
霧が少しづつ晴れ、庭の一部が姿を現した。雪崩山の視界にやっと白以外の色が入った。黒。全身黒づくめの男が二人。雪崩山の眼は、その混乱した脳にも素早く映像を送り込んでいた。
「安藤……広樹ッ!」
帽子を脱いだ二人の男は、紛うことなくE研の実力者──あの白い蛇のような男・安藤善といやらしい男、広樹和義その人であった。その眼は虚ろで、まるで生ける屍のような印象を与えていた。
その安藤と広樹が、足音一つ立てずにゆっくりと雪崩山の方に歩いて来るのだ。一歩、また一歩。その距離は、確実に縮まっていった。雪崩山は自身の腕を交差たせて身構えた。何が起ころうとしているのか、彼には全く理解出来なかった。とにかく攻撃あらば防ぐのみの体制を取る必要があった。
木々が風で鳴った。しかし、一向に霧の晴れる徴候はない。霧が風で流されないのだ。
黒い二人は、既に雪崩山の前方七メートル辺りに立っていた。二人と雪崩山の間にだけは霧が掛かっていない。屋敷を後ろに、雪崩山は後退る道を失っていた。無気味な時間が闇のように流れた。どろりとした安藤の眼が何かを広樹に語りかけ、広樹はそれに従うように一歩安藤より前に出た。
「は!?」
突然の破裂音に雪崩山は思わず飛び退いた。雪崩山の頭上に位置していた屋敷の壁が雪崩山に降り注いだ。破片を腕で払い、雪崩山は体制を立て直すべく庭の中央に転がり出た。
──念動破壊? 広樹のPKにそこまでの力が!?
次に雪崩山を襲ったのは、自室に設置されていたはずの洋服ダンスであった。轟音と共に窓枠がふっ飛び、その巨大な木箱が雪崩山目掛けて飛来したのである。さすがの雪崩山もとっさにこれを弾き返す芸当は出来ず、素早く身を右方に転じてこれをかわした。そんな雪崩山を、広樹は笑った。笑いながら、その左腕をゆっくりと雪崩山に向ける。脳に安藤のテレパシーが響き渡る。
『山崎里美は君たちの手におえる代物じゃない。我々が管理する』
「広樹、貴様いつからそんなに汚い男になり下がったッ! 安藤、お前もだ! 力をおどしに使うなど……」
『問答無用だ』
安藤の眼が再び広樹に何かを語りかけた。広樹は指図されるままに、雪崩山に攻撃を仕掛けた。次の攻撃は、庭の木々からその葉を多量に降らすものであった。葉の一枚一枚が手裏剣のごとく高速回転し、雪崩山の身体を襲った。逃げまどう雪崩山。彼の怒りは次第に蓄積され、その実体を見せようとしていた。
「そんなにまでして、山崎里美が欲しいか? 俺を倒してまでして、彼女が欲しいか? 上等じゃねーか、俺を倒してから彼女を取れよ! だがな、俺だって代々伝わる超能力集団、雪崩山一族のはしくれよ! 殺れるもんなら殺ってみな!!」
雪崩山はそう言い放つと、一瞬にして念を集中し、気を広樹にぶつけた。霧の中に舞っていた多量の木の葉がそれを境に一気に逆流し、安藤と広樹に向かって鋭く飛びかかっていった。
「訓練されたサイコキネシスがどんなものか、しっかりその眼で見ておくんだな!」
雪崩山は、幼い頃から父三郎の手によって能力向上の諸訓練を受けていた。
雪崩山家は室町の頃からの家系で、元来は長野に祖を持っていた。雪崩山という一風変わった名字も、三郎の友人である歴史学者にそのルーツを探ってもらった結果によれば、長野に一族が住んでいた頃、村に攻め入ろうとする他国の軍勢のある時、必ずその一族の者が防戦を名乗り出て、不思議な力で夏は崖を崩し、冬は雪崩を起こして軍勢を退けた──というそんな逸話に由来するのではないか、と言う。事実、家系図にはそれらしき能力を持っていたと推定される人物が三代に一人程度の割合で発見出来たのである。
三郎の研究は、これによって拍車が掛けられた。現代心理学から超心理学、雪崩山三郎は持てる能力の全てを息子・雪崩山勇次に注ぎ込んだのである。科学的な実験、物理的な実験、過去の実例、こうして雪崩山は十五年近くも純粋超能力者としての教育を受けてきた。世界に唯一の民間教育型エスパー・エリートと言えた。
その雪崩山が、黒い二人に対して本気を出そうとしていた。空気はその徴候を敏感に感じ取り、既に震え始めていた。霧も雪崩山の周りからは消え失せ、負けつつあった。安藤は浮き足立ち、広樹は焦りだしていた。
「勇次さん、むやみに力を使ってはいけません! お父さまからも言われていたでしょう?」
ふいに後方から母圭子の声がした。振り返る雪崩山。庭に通ずるドアの向こう側から、心配そうに圭子が覗いていた。気を削がれた雪崩山は、念の集中を解いた。
「母さん、何を今さら。相手が能力者なら、能力を使っても何ら問題はないでしょう?」
『下がれ。あいつを甘く見すぎた』
その声を脳で聞いた時には既に時遅く、安藤と広樹は雪崩山の視界から去っていた。あの、屋敷の周囲を覆っていた濃い霧と共に。
「しまった……」
雪崩山はほぞを噛んだ。
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