11 おそろしきもの潜む
セレファイスの崩壊から、四日が経過していた。警察にはあの事故は「ガス爆発」と処理され、セレファイスは事実上の営業停止処分を施されていた。ただ、たとえ営業許可に変化がなくとも、建物の四方の壁に巨大な穴の開いた喫茶店には、客が来るとは思えなかった。マスターの落胆はかなりのものであったが、大した怪我人が出なかっただけでも儲けものであったと言える。
警察当局に、麻都との戦いを理解させることは到底不可能なのだから。
「広樹と安藤の容体は?」
捲くり上げられた袖の下の包帯が、四日前を思い出させる。藻間はそんな自分の腕を見つめつつ、五六に尋ねた。学生ホールは、相変わらず学生たちでごった返していた。五六はひと呼吸置いてから、その問に答えた。
「安藤はまだ意識が戻ってないらしい……広樹には昨日会って来たよ。すまなそうにしてた。かろうじて、自分が何したか覚えてるらしい」
「そうか……」
藻間も、五六も、その視線は宙に舞っていた。互いに、相手の眼を見ていない。その脳裏には、四日前の事件の概要が、浮かんでは消えていった。
四日前……超能力者のサークルであるアミューズメント・パーティ始まって以来の強烈な事件は、新入生である山崎里美を中心に廻っていた様々な事件の、終結でもあり、始まりでもあった。麻都須と名乗る男に操られたAPのライバルサークルであるE研のテレパス・安藤とサイコキノ・広樹は、APに対して全面降伏と山崎里美の引き渡しを要求してきたのだ。
「俺はてっきりE研のいやがらせだと思ってたんだけどな……予測は大きく外れたな」
藻間は大きな身体を左右に振り、机を隔てた正面に座る五六に相槌を求めた。五六は新聞から眼を離すと、ちらっと藻間を見、また新聞に見入った。
「山崎さん……彼女が一体何だっていうのかな」
E研やAPが山崎里美を欲しがった理由は明白である。今年度の新入生の中で、まともにESP反応のあった人間は彼女一人だったからである。犬猿の仲である両サークルを兼部することは事実上不可能である。だから、両サークルとも必死の勧誘を行い、APは彼女を取り、E研は横取りを企む……これだけならよかったのである。
「どの辺りからかなぁ。話がこじれてきたのは」
藻間の独り言に、五六は新聞の向こう側からぼそっと答えた。
「多分、飯島のアパートにヤツが現れた辺りからだろう。それまでは麻都とかいうヤツの名前も顔も知らなかったんだからな」
「うむ……」
二人は周囲の学生たちの歓声に掻き消されそうな声でうなった。しばらくの沈黙があり、二人は周囲の雑音を聞くとはなしに聞いていた。陽が傾いている。ホールの壁にある時計は、午後五時八分を指していた。紅い夕日の指すホールは、平穏そのものであった。
「でもさ……」
「あ?」
先に口を開いたのは、やはり藻間のほうであった。
「麻都ってさ、何者なんだろうな」
「それこそ俺には分からん」
二人は再び、沈黙した。麻都のことも、里美の能力のことも、結局分からない部分は全く解決がなされていないのである。藻間は藻間なりに、五六は五六なりに、事の解決策を考えはするのだが、糸口すら彼らには見つけることが出来なかったのである。
二人は次第に暮れゆく西の空をガラス越しに眺め、陽の落ちるのを待つしかなかった。
「やあ、お二人さん」
そんな二人の視界の外から、親しげに話かけてくる男がいた。藻間は振り向き、五六は新聞から顔を出して、その男に応対した。
「やぁ、小川。名東のことでは世話かけたみたいだね」
「いや、こちらこそウチの広樹と安藤が迷惑をかけたね」
声の主は、E研とAPとの、ほぼ唯一のパイプラインである、E研の小川であった。小川は長い髪に手を入れながら、藻間の隣に腰をかけた。
「名東君の容体は?」
「名東は雪崩山の知人の病院に入院してるよ。大分精神がまいってるらしい。静養が必要だろうとさ。一月くらいのね」
「そうか……」
藻間のゆっくりとした言葉に相槌をうち、小川は煙草をくわえた。紫色の煙が周囲に漂う。
「じゃ、APは大打撃を被ったんだな。飯島君もまだなんだろ? 雪崩山君と加藤君だけじゃないか、まともに活動出来そうなのは」
藻間も五六も、これには無言でうなずいた。藻間は眼鏡を外し、ゆっくりとした動作でそのレンズをハンカチで拭った。五六も新聞を折りたたみ、革の鞄にしまった。
「この後、白楽天で雪崩山たちと合流して、飯島と山崎さんの見舞いに行くことにしている。もしよかったら来ないか? 小川」
「誘ってくれるなら、喜んで」
柔らかな微笑みを浮かべて小川は言った。煙草は半分以上残った段階でもみ消されていた。
「ども、遅れましたぁ」
全身黒ずくめの雪崩山が、ヘルメットも外さずに中華料理店「白楽天」に飛び込んできたのは、陽も沈みかけた午後六時半を回ったころであった。中には、彼の到来を待ちかねていた藻間、五六、小川、そして加藤の四人がラーメンをすすっていた。
「あれ、割澤は?」
「割澤は家から一歩も出ないってさ。よっぽどショックが大きかったんだな」
加藤がハシをくわえたまま言った。雪崩山は、そうか、といった表情を浮かべ、隣のテーブルに着いた。
「あ、おやっさん、飯島スペシャルね」
雪崩山は大声で奥にいるおやじに注文すると、グローブを外しながら四人に向かって身体をひねった。四人はハシの動きを止め、雪崩山の言葉に集中する構えを見せた。
「今から皆さんを案内する場所は、今まで皆さんには全く話したことのない場所です。私の父の友人である医師たちが共同で経営している医療施設なのですが、普通の病院とはちょっと違った場所なのです」
「違ったって……別段精神病院ってわけでもあるまいに」
藻間はおちゃらけて言ったつもりだったが、雪崩山の表情はぴくりとも動かなかった。
「そうです。面向きは精神病院の肩書でやっているんです。なるたけ周囲の人々に関心を持たれないように……」
「ゾッとするね」
加藤は、おちゃらける気はなかった。心の底から出た言葉であった。雪崩山の表情といい、喋り方といい、何かを感じずにはいられなかったのである。それは、テレパスである小川にとっても同様、いや常人以上であったに違いない。
「何かが分かる……山崎里美の秘密がそこでなら解析出来る、ということかね? 雪崩山君」
小川のその言葉は、皆が聞きたくても聞けなかった部分である。脳裏によぎりはするのだが、決して口から出ることのなかった言葉。しかし、その場にいる誰もが聞きたかった言葉であった。雪崩山は外したグローブをテーブルの隅に置くと、彼らの方に向き直って言った。
「そうです。私の父の助手だった優れた超心理科学者たちが今、解析を行っています。学会に発表するところまでこぎつけるのが彼らの仕事です。今までにないタイプの超能力が存在する可能性もあるのです」
「あの娘にか……?」
「信じられん……」
四人は雪崩山の言葉を聞いて、沈黙した。その雰囲気を察してか、おやじはそっと雪崩山の脇に飯島スペシャル定食を置いていった。
「ただ、これも推測の域を脱していません。あの現象の要因すら、正式には分かってはいないのですから……」
意味ありげな言葉を最後に、雪崩山は食事に入った。
「さ、乗ってください」
店の外には、いつの間にかワゴン車が待っていた。運転席には、髪の長い女性が座っている。雪崩山はその女性に手を振り、合図を送った。ゆっくりとワゴン車がバックして来る。
「やあ、麗子君か」
「お久し振りです、小川さん」
運転席の女性は、麗子であった。雪崩山家への道を知る唯一の普通免許所得者なのである。雪崩山はヘルメットを被りながら麗子に言った。
「無線の調子は大丈夫か?」
「ええ。OK」
雪崩山のヘルメットからコードが伸び、背中のナップサックにつながっている。これは、ワゴン車の麗子と無線で会話するための装備である。雪崩山のヘルメットの口に当たる部分にはマイクロホンが、耳にはインナーヘッドフォンが付けられているのだ。
「じゃ、行きましょうか」
雪崩山のGSXが先導となって、ワゴン車は発進した。幹線道路を抜け、広い道から狭い道、狭い道から広い道へと抜け、周りの背景が次第にビル群から住宅へと変貌していく。東京郊外にある雪崩山邸までは、車でも一時間半は優にかかるのだ。
「こちら雪崩山。うまくやってるか?」
「こちら麗子。大丈夫だってば」
運転席の麗子は、余裕の表情で言った。隣にすわった小川は、そのやり取りに妙に感心していた。
「いや、気付かなかったなあ。麗子君と雪崩山君がねぇ……」
「高校からの付き合いですもの。仲良くもなりますよ」
「そんなもんかねぇ」
小川は無意識に煙草をくわえていた。後部座席にいた加藤が、その小川の顔の前にすっと手を伸ばす。軽い摩擦音と共に、小川の煙草に火がついた。
「あ、ありがと。いや便利便利」
小川は他の三人に比べ、リラックスして言った。逆に、後部の回転対座シートにいる藻間、五六、加藤の三人は、無言でじっと座っていた。それぞれの思いは複雑であった。外は漆黒の闇に包まれ、次第に人家も疎らになってきていた。
「随分遠くなんだね」
「ええ、群馬まで行きますから」
藻間がそれを聞いて、やっと口を開いた。
「群馬? 雪崩山の実家は都内のはずだが……」
「直接施設のほうに行くそうです」
麗子の声に、藻間も納得した。施設が雪崩山家の敷地内にあると勝手に錯覚していたのだ。他の三人もほぼ同様で、長い車内旅行に納得していた。
「止まれ!」
雪崩山の怒声に、あわてて麗子はブレーキを踏んだ。後部座席の三人は思わずつんのめった。麗子も小川も、一瞬視界を失っていた。しばらくして顔を上げると、フロントガラスの向こう側では、進行方向に対してバイクを直角に停めた雪崩山が、ワゴン車のライトに照らし出されていた。麗子はシフトをニュートラルにし、ハンドブレーキを引いてシートベルトを外し、窓から身を乗り出して前方を凝視した。
「何かいるらしいな」
同じくシートベルトを外した小川は、雪崩山の指す暗闇に包まれた前方を見て言った。周囲に人家はほとんどなく、土の露出した工事中の土地のど真ん中に伸びる一直線の道路。その先には一体何がいるというのだ?
「麗子、車から離れるな。俺が対処する」
無線で雪崩山は言うと、バイクから下りてヘルメットを外した。その仕種は、いかにも「今からお前をぶちのめしてやるぞ」と言わんばかりであった。「敵」がいるのか?
「言う通りにするんだ、麗子君。シートベルトをして」
小川は冷静に言った。麗子はそれに従い、いつでも発進出来るような姿勢に移った。藻間も、五六も、事の次第を瞬時にして理解していた。二人ともシートベルトを締め、急発進に備えていたのだ。
「ここは俺に任せなよ」
ワゴン車の側部ドアが大きな音を立てて開いた。加藤が外に出たのである。加藤はゆっくりと雪崩山に近付いていった。
「足手纏いにはならん。俺にもやらせてくれ」
「分かるか? この先にいる『何か』が……」
「手に取るようにな」
雪崩山と加藤の二人は、じっと闇の彼方を見た。
「道を変えろ。この辺りを迂回して行くんだ。道は分かるな?」
雪崩山のその大声に、麗子は何度もうなずいた。そしてワゴン車は、小川、藻間、五六の三人だけを乗せてUターンを開始した。雪崩山はそれをじっと見守り、ワゴン車のテールランプが見えなくなるまで見送っていた。
「来たぞ」
加藤の声が低く響く。雪崩山と加藤は、周囲の闇に向かってファイティングポーズを取った。約二百メートル間隔ぐらいにしか立てられていない街路灯の明かりが、スポットライトのように暗いアスファルトの道路を照らす。
「シャッ!」
鋭い音とも声とも取れない響きが、加藤の後方でうなった。素早い。何者かが動いているのだ。人間技とは、とても思えない。巨大な猫科の動物が闇に潜んでいるとしか思えない。雪崩山も、加藤も、周囲に気を張り巡らしていたというのに、である。
「こんな近くにいたのか!?」
加藤は受け身を取りつつアスファルトの上を転げ回った。触ってみたら、白いジャンパーの右肩の部分がぱっくりと口を開けていた。鋭い刃物を持っているようだ。
闇の住人は、再び気配を消していた。二人には、その存在は全く知覚出来ない。まだいるのかすら分からないのである。
「麻都とは違う……別の意味での、殺人教育を受けているとしか思えないな」
「また敵対エスパーが増えたって事かい?」
「能力者かどうかはまだ分からない」
雪崩山は眼を閉じ、心を静めた。せめて敵の気配だけでも知ることが出来たなら……!
『山崎里美はおまえらの手におえる相手ではない。我々が管理する』
二人の脳に、突然強烈なテレパシーがぶつけられた。もんどり打って倒れ込む二人。かなり強烈なエネルギーである。まるで、脳を直接ハンマーで叩かれたかのような衝撃を覚える。これは、一度受ければ決して忘れることの出来ない攻撃である。
「やはり、麻都か? それとも、ヤツの一味か!?」
その雪崩山の叫びに、テレパシーの発信者は答えた。
『アザト? ヤツと一緒にしてもらっては困る。私の名は翼曽通、ヤツとは比べ物にならない能力の持ち主!』
「翼曽……通? 比べ物にならない能力の持ち主だぁ? 一体お前たちは何者なんだ!?」
雪崩山は頭を抱えながら、その傷みに反発して叫んだ。その翼曽と名乗った男は、姿も気配も全く表さずに二人へ再び語りかけた。
『麻都須はもうお前たちの前には二度と現れないだろう。今度の相手はこの私、翼曽通だ! さあ、言え! 山崎里美は一体どこにいるんだ?』
加藤も頭を抱えながら、必死に抵抗を続けていた。
「ほう、これだけのテレパス能力がありながら、俺たちの頭の中が読めないのか? こりゃお笑いだぜ!」
加藤のこの言葉は、翼曽の逆鱗に触れたらしい。再び空気を裂く音がしたかと思うと、加藤のジャンパーの腹と左肩の部分が大きく裂けた。皮一枚の、まさにぎりぎりのやり方である。
『私をあまり怒らせないほうが得だとは思わないか? お二人さん』
雪崩山も、加藤も、この会話の間中ずっと翼曽の姿を追って視線を走らせていた。このテレパシーが例え遠隔テレパシーだったとしても、加藤の身体を切り裂いたものはどこかに存在しているはずなのである。それとも、このカマイタチめいた攻撃も、遠隔PKなのか?
『私は比較的、気が短いほうでな。回答は速やかに行ってもらいたいものだな』
何度目かのテレパシーが、二人の脳髄をえぐった。常人ならば、すでに耐える限界を越えているであろう。この二人が発狂しないのが不思議なぐらいである。二人がかろうじてこのテレパシー攻撃を食らっても発狂しないのは、意識を別の方向に飛ばす訓練を日頃しているからである。この場合は、翼曽が一体どこにいるのかを考えていることがこれに当たる。その認識が飛んでしまったら、二人とも精神の拠り所を破壊されてしまうであろう。
「もう……一度だけ……聞く……お前らは一体……何者なんだ……?」
口からよだれをたらしながら、アスファルトに膝をついたままの状態で雪崩山は問うた。もう、これだけしゃべるだけでもままならない。
『お前たちにそれを言っても仕方のないことよ。あくまでシラを切るのなら、ここでお前たちにケリをつけて、さっきのワゴン車を追うだけのことよ』
翼曽がせせら笑うような声を出した。笑い声がかすかに雪崩山の耳に届いた。耳からの、心待ちにしていた情報が今、ついに彼の元に届いたのである。
「そこかッ!!」
雪崩山は一瞬にして振り向き、渾身の力を振り絞った必殺の一撃──PKを相手にぶつけた。轟音が轟き、真っ暗だった空間に火花が散った。見えなかった翼曽が雪崩山のPKによって弾き出され、その身体をアスファルトに叩きつけたのである。
「これかッ!」
次の瞬間、加藤の周囲にも変化が起きた。黒い蝶のようなものが、加藤の念動発火によって燃え落ちていったのだ。これが刃物の正体であったらしい。
「遣い魔……式神?」
「そんなチャチなものではない。わたしの分身だ」
全身から水蒸気を上げながら、ゆっくりと翼曽は立ち上がった。背が高い。麻都も一八五センチ程度あったが、この男は優に二メートルを越える大男である。そして全身を漆黒のコートで包み、その頭には山高帽を被っている。その肌は青白く、髪は銀に近い白髪であった。特徴的には麻都と同種の人間であるが、麻都とは決定的な相違点があった。
この男には、耳がなかった。
耳にあたる部分にはちいさな穴が開いているだけで、いわゆる外に広がった耳というものは存在していないのだ。最初からないのか、それとも後に失ったのかは、知る由もない。
「なるほど……さすがは雪崩山君。麻都との一騎討ちの話は聞かせてもらってるよ。普通人にしては、やる。それと、そちらの彼は……加藤君か。君の念動発火も中々。瞬時に攻撃の出来るサイコキノはそういるもんじゃない」
「褒めてもらうのはいいんだけどね」
雪崩山と加藤は、頭痛の驚異からやっと解放されていた。よだれを拭い、頭を振り、二人はようやく翼曽の顔を見ながら話の出来る状態になっていた。
「何であんたたちが山崎さんを欲しがるのかを知りたいな。あと、あんたたちの正体もね。そうでないと、俺たちこれから安心して生活が出来なくなっちまうからね」
雪崩山はジーパンの膝の擦り剥けを気にしながら、翼曽に言った。加藤もまた、切り刻まれたジャンパーを脱ぎ、拳に力を入れていた。そんな二人を翼曽は、高い所から見下ろすようにして眺め、言った。
「すでにここでの私の仕事は一つきりだ。君たちに御協力頂けないのなら、ここで塵に帰ってもらうのみ……」
その言葉を言うか言わないかの間に、翼曽は自らの左手をコートの下から出していた。青白く、細い手の先には、紅いマニキュアをした爪を持つ指があった。しかし、その数は注目に値した。
小指がないのである。
「さっきはよくも私の可愛い小指を焼いてくれたね、加藤君。でも、次はそうはいかないよ。君にも経験があるだろう? 小指というのは、一番使いでのない指なのだよ」
ハッとして加藤は、自分の足下に落ちている〈刃物〉を見た。焼け焦げてはいるが、それはまさしく長く爪を伸ばした人間の指の形をしていた。
「そんなに気味悪がらなくてもいいじゃないか。自分の指をPKで君たちに飛ばしているに過ぎないのだから……」
翼曽はニヤッと笑った。
「ようこそ、岩崎医院に」
麗子は岩崎と名乗る医師に誘導され、ワゴン車を駐車場に入れた。木々の鬱蒼と生い茂る林の中に、目的地である岩崎精神科医院は存在した。辺りは民家もまばらで、人もそうそう寄り付かない雰囲気を醸し出していた。
「私がここの院長、岩崎弥之助です」
五十に手が届くかと思われる、中肉中背の白衣の男が名乗った。藻間と五六は岩崎医師と握手を交わし、自己紹介を行った。二人が自己を紹介している間中、岩崎医師はずっと微笑みを絶やさずにいた。白髪混じりのオールバックの髪が研究者の雰囲気を一層強めていた。
「おや、勇次君は?」
「あ、用があるとかで、この後に来ると思いますが」
麗子は慌てて答えた。岩崎医師はそれで納得したらしく、三人を病院の中へと誘い入れた。
「名東や飯島、山崎さんの容体は……」
「三人とも、まだ意識が回復せんのじゃ。ま、命に別状はないから、その点は安心してくれたまえ」
岩崎医師はそう言いながら、地下二階にある大きな鋼鉄の扉の前に来て立ち止まった。
「岩崎だ。客人を三人連れて来ておる」
「了解しました」
どこからともなく声が響き、巨大な鋼鉄の扉が音もなく開いた。どうやら、ここから先は、選ばれた人にしか見せることの出来ない部分らしい。三人は、大仰なこの光景に緊張の度合いを濃くしていった。
「あの奥の……21号室に飯島君と名東君、隣の22号室に山崎君がいる。ただし、昏睡が続いているから、不用意な音は立てないようにしてくれたまえ」
岩崎医師はゆっくりと三人に言った。三人は無言でうなずき、病室の前に行った。まず、21号室である。
「……!」
三人の動きは、病室に一歩入った所で止まってしまった。別に、病院独特のあのにおいに圧倒されたわけでも、意外な治療が行われていたわけでもない。ただ、飯島と名東の周囲には見慣れない計器類のちりばめられた器械が並び、腕や足や胸や頭などから続々とデータを取っている姿に圧倒されたのである。
「これ……何の器械だ?」
藻間は五六に小声で質問した。しかし、五六とていくら博識とはいえ、専門家ではない。その首は横に振られるしかなかった。ただ、一つだけ五六にも分かる点があった。「ここの器械はみんな治療器械じゃないな」
「どういうことだ?」
「つまり、この二人の治療……特に外科的な治療は既に施されてしまった、ということだ。ここにある器械は皆んな、脳波や心音なんかの計測器械だ」
三人は、狭い一室で器械に囲まれて眠りについている飯島と名東を見ながら、様々なことを考えていた。いつ目を覚ますのか? 治療は済んだのか? 後遺症の心配は?
「とにかく、もう二人の回復の手は我々の側にはないってことだな。二人の精神力というか、底力というか、そいつに期待するしかないんだろうな」
自己治癒だけが望み──この五六の言葉に、藻間も麗子もうなずいた。頑張れ、と心の中で言わずにはいられない、そんな気が三人にはしていた。
「じゃ、隣も見てこようか」
藻間の言葉で廊下に出た三人は、22号室の方へと向かった。ここは他の部屋とはドアの大きさが違う。普通の病室のドア四枚分もありそうな大きなドアなのだ。
「おお、来たか。見たまえ」
ドアを開けた瞬間、中からそんな声が聞こえてきた。それは彼らには見知らぬ医師の声であった。声を発した医師は予想に反した人間が顔を出したものだから、ちょっと困ったような表情を浮かべている。藻間はすぐさま、フォローした。
「山崎里美の先輩に当たる者です。彼女の容体はどうなのでしょうか?」
その藻間に負けないぐらい分厚いメガネをかけた銀髪の医師は、その質問に嬉しそうに答えてくれた。
「心配はいらん。生命活動に支障はない。ただ、ちょっと精神疲労が大きいからな、今はゆっくりと休んでもらっておる」
そう言った医師の他にも、二、三の医師が、この広い病室にはいた。ここにはその代わりに計測器械らしい物は一切存在せず、左の壁添いに一台パソコンが置いてあるのみであった。
「彼女の回復と原因糾明に全力を注いでおる。私らも雪崩山先生の弟子だ、超心理現象には詳しい。勿論、医師としての腕も一流だ。もっとも、今回は外科手術は一切なかったがね」
口許を大きく歪め、医師はからからと笑った。憎めない感じの人である。つられて三人も笑った。
「じゃ、お任せします。これからも、よろしくお願いします」
こうして三人は再び廊下に出た。見舞いといっても、皆が皆昏睡状態では、話も出来ない。よって、必然的に面会の時間は短いものとなった。
「どうじゃったかな? 面会は」
鋼鉄の扉に一番近いベンチに座っていた岩崎医師は、出て来た三人に声をかけた。
「ま、昏睡の患者に会ってもそう面白くはないじゃろ」
岩崎医師は、三人の表情を読んだかのようにそう言い、笑った。
「それじゃ、上の喫茶室かなにかで勇次君の到着を待つとするか」
岩崎医師と三人は、鋼鉄の扉を潜って病棟へと戻って行った。
「まあ、純粋に戦闘用の訓練を受けてきた私とここまで戦えたんだ、誇りに思ってもいいよ」
翼曽は勝ち誇ったように言った。雪崩山も、加藤も、翼曽の動きに完全に圧倒されていた。動きそのものにもついていけないのである。ましてや、〈刃物〉はかわしようがなかった。
「私は君たちに簡単に死をもたらすことが出来る。ただ、なぜそうしないのか? 答えは簡単だ。私は殺人は嫌いだということさ。だから、私は今までどんな相手も殺すことだけはしなかった。代わりに……と言ってはなんだが、私はその相手の運動神経や視神経といった部分を破壊する。そう、不具者なってもらうのさ。今後一切我々の邪魔の出来ないようなね」
翼曽のいやらしい笑いが響いた。まさしく、悪魔の笑いである。しかしこの悪魔に対して、雪崩山も加藤も有効打を全く欠いていた。勝ち目が全くないのである。
「何とか隙を作らせないと……」
何度目かのアタックを加藤が仕掛けた。猛然とダッシュする加藤だったが、アタックの数と同じく何度目かの衝撃波を受け、道路の脇の盛り土に叩きつけられた。これが何度も続けば、どんなに体力自慢の人間でも確実に死に到らせることが出来るであろう。
「今だ!」
雪崩山はその加藤のアタックの間に、愛車GSXに跨がり、そのエンジンを噴かした。そしてヘッドライトを上向きにすると、一気に翼曽に向かって突っ込んでいった。
「バイクの馬力とあんたのPK、どっちが上かな!?」
「むう!」
翼曽は放っていた左手の指全てをGSXに集中させ、自らもまたPKを放った。バイクの突進力とPKの瞬発効力からいけば、普通ならバイクを弾き返すことは不可能であろう。しかし、翼曽はそれをやってのけた。翼曽まであと一メートルまで迫ったGSXを、彼は停止させてしまったのである。タイヤがきしみ、アスファルトとの間から白煙を上げている。雪崩山は目一杯にスロットルを開けている。それでも、全く前には進まない。
「かッ!」
その停止したGSXと雪崩山に、〈刃物〉が一斉に襲いかかった。雪崩山はその数本をPKで逸らせたが、一本を左の肩に、一本を右の太ももに食らった。逸らせた〈刃物〉も、GSXのタンクを切り裂いていた。
「だっ!!」
雪崩山は飛び退くようにGSXを離れ、加藤に合図を送った。加藤は素早く盛り土から半身を起こすと、がっちりと組んだ両の拳をGSXに向けた。
「行けーっ!」
翼曽のPKとエンジンの反発、さらにハンドルを握る雪崩山がいなくなったために、GSXはガソリンを撒き散らしながら上空に舞った。そして、そこに加藤が空気摩擦を作り出し、ハイオクガソリンは一瞬にして爆発炎上を起こした。
「何─────ッ!?」
翼曽はバリアを張る間もなくその炎を被り、火達磨となった。一転、二転、三転。翼曽は転げ回り、その炎は次第に小さくなっていった。
「あ……」
雪崩山と加藤は、その火達磨が次第に小さくなって行き、最後には握り拳程度にまでなった時、ようやく翼曽がコートだけを残してテレポートしたことに気付いた。近寄って見た時には既に、焦げて嫌な臭いを放つコートの残骸意外には何も見つけることは出来なかった。
「翼曽……通……」
呆然と立ち尽くす雪崩山と加藤。初夏にしては冷たい風が、そんな二人の傍らを通り過ぎて行った。