アミューズメント・パーティOnLine

16  怪老人


「そろそろ時間だが……?」
 雪崩山が腕時計を睨んだまま、言う。彼の時計の針は、十二時ジャストを示していた。
 翼曽の指定した「正午」である。
「全員、フォーメーションを崩さないで下さい。ヤツの出方が全く分からない限り、我々にはこの手しかないんですから」
 雪崩山の大声が学生ホール内に鳴りひびく。他のアミューズメント・パーティのメンバーは、その声に応えて頷く。僅かなタイムラグとともに、外に立っているメンバーも無言で頷く。
 応戦体制は整った。
 と、その緊張しきった空間に、茶々を入れる者がいた。
「悪い、雪崩山。俺、ちょっとジュース買ってくるわ」
 その声の主は、大柄な身体を揺さぶりつつ雪崩山に言った。同時に、傘が雨に打たれる音がする。
「待て、藻間。俺も行く」
 その声の主もまた、雨の音の中に消えていった。雪崩山はその光景を見ながら、一つため息をついた。
「動かないでって言った矢先にあれだ。藻間さんも五六さんもわがままなんだからなぁ」
 その呟きに、くすっと微笑った者がいた。
「ま、いいじゃないか。あの二人なら、大ポカはなかろうて」
「そうは言うがな、飯島。今回の戦いは前回のセレファイス戦とは比べ物にならないんだぞ。翼曽ははっきり言って麻都以上の能力者だ。この、今周囲に張られている精神空間の広大さから言っても、まったくケタ違いの敵なんだ。それも、だ。敵は一人じゃない。組織がバックにいるってことがはっきりしたんだぜ。死ぬ気でかからにゃ、こっちが」
 雪崩山は言葉を切り、自らの首に右手を当て、水平に引く仕種をしてみせる。そのジェスチャーに、飯島は苦笑いを返しつつ、言う。
「だがな、前回以上に不利とはいえ、俺と里美……いや、山崎さんの能力があるんだ。自惚れて言ってるんじゃないぜ。防御は鉄壁だってことだ。要は、いかに護るか──いかに〈雷羅〉に山崎さんを諦めさせるか、だろ?」
「そんな簡単に事が運ぶのなら、こんな苦労はしない」
 雪崩山はサングラスを外しつつ、飯島の意見を否定するように続けた。
「お前の能力の存在は、確かに防御に関しては便利だし、重宝だ。しかし、それだけの能力が、彼女の御陰で出せることを知った〈雷羅〉は、それこそ死にものぐるいで彼女を奪取してくるだろう。お前はいつまで、彼女を護ることが出来る? 彼女に負担をかけずに──」
 飯島の頬から、笑みが消えた。傍らで聞いていた里美が、飯島の右腕に腕を通してぎゅっと抱きつく。眼が脅えていた。
「判っているはずだ、飯島。お前は、彼女をお前一人の能力で護ることは出来ない。必ずその能力は彼女に負担をかける。そして隙を見せたとき、お前は彼女を奪われ、ただのテレポーターに成り下がるんだ」
「……何が言いたい」
 飯島は、その俯き加減の顔から、表情を殺したままで尋ねた。雪崩山はその問いにすぐには答えず、暫く雨の降り注ぐ天を窓越しに見つめていた。
「判ってくれ。俺たちは、お前と山崎さんに幸せになってもらいたいんだ。だから〈雷羅〉との戦いは、これっきりにしたいんだよ──そんな単純に、そんな簡単にお前と山崎さんの能力に頼るわけにはいかないんだ」
「何故だ」
 学生ホールには、会話を続ける雪崩山と飯島、里美の他には、瀬川と名東がいるばかりである。暗く、湿った空間が、残りの部分を占領している。雨の音が断続的に響き、人間の臭いを消し去っていく。
「何故だ」
 もう一度、同じ言葉がホールに響いた。飯島の、少しだけくぐもった声である。雪崩山にも、里美にも、未だかつて聞かせたことのない口調であった。
「単刀直入に言おう」
 雪崩山が再びサングラスをかけ、飯島のほうに向き直って言った。
「お前のあの技は、彼女の生命を蝕んでいる」
 ホールの外のアスファルト敷の通路を叩く雨足が再び強くなった。
「蝕む……?」
「そう……正しく表現するなら、お前の生命とともに、彼女の生命も消耗している。ただし、負担は山崎さんのほうがはるかに大きい」
 雪崩山の言葉は、痛烈に二人の心を抉った。里美は言葉を紡ぐことも出来ず、ただ飯島に抱きついていた。その力は依然にも増して強められていた。
 飯島は、その顔に苦悶の皺を刻みつけていた。衝撃の事実である。「蝕む」──その言葉自体の強さ以上のものを飯島は感じ取っていた。それは、「死」に直結するものなのだ。他人の生命を、自分の勝手で、自分の無意識な勝手で「蝕んで」しまう──それも、パートナーである里美の生命を……!
 雪崩山もまた、苦しんでいた。本来なら、作戦上隠しておくべき事実である。それを、戦いの直前に、本人たちに直接話すことになろうとは──! しかし、これも運命なのだ。翼曽と、〈雷羅〉と戦うのが運命であるならば、これもまた受け入れざるを得ない運命なのである。
「彼女の能力はアンプリファイア──超能力増幅能力だ。つまり、お前の潜在的な能力を増幅するのが彼女の仕事になる。出すのは、お前だ。しかし」
 雪崩山は言葉を切り、ホールの対角線上にいる瀬川と名東を見やった。瀬川と名東は、その視線を感じると、そっとホールを出て行った。
 その様子を見て、雪崩山は言葉を続けた。
「お前は、お前の潜在的な能力を使うのだから、さほど劇的な体力の消耗はないし、消耗があったとしてもそれはお前の能力の範疇だ。しかし、彼女は違う。彼女はお前の能力を一度吸い上げ、増幅してお前に返す。彼女自体に能力はないに等しいが、生命の消耗の度合いは段違いだ。判るか? お前は出すためには何の努力もしていないが、彼女は増幅させるために格段の努力が必要なのだ。それも、お前たちが望むと望まざるとに関わらず、だ。お前は、彼女のことを考えずにその能力に頼ることがどんなに傲慢な考えなのか、全く気づいていない。判るか!? 飯島。お前に責任が取れるのか!?」
 雪崩山の、絶叫に近い声がエコーとなってホールにこだまする。そして何度目かの、静寂の刻が訪れた。
 黙っているしかなかった。飯島には、返す言葉の持ち合わせなどあるわけがない。その視線が次第に、自分にしがみつく里美の手に集中し始める。雪崩山の眼を見るのが怖いのだ。そして、心の内を見透かされるのが怖いのだ。
「いいか飯島。俺の言いたいことはたった一つだ。お前はことあの能力に関しては、彼女を全く思いやっていない。心の底からの思いやりなしに、あの力を使うことは自殺以上の罪になる──それを心に刻んで欲しいんだ」
 ここまで言って、雪崩山は顔を上げた。そして周囲に慌ただしく視線をばらまき、ほぞを噛んだ。
「──しまった!」
 雪崩山の言葉に打ちのめされていた飯島は、雪崩山の叫んだ理由が何であるか、全く飲み込めないでいた。


「はい、もしもし……あ、はい、少々お待ち下さいませ」
 受話器を置き、石原智子は階段を小走りに上がって行った。あまり耳慣れない名の男だったが、娘の知り合いだろうか? 電話口で、もう少し素性を説明させるべきだったろうか? 智子は僅か二十段足らずの階段を駆け上がる間に、それだけのことを考えていた。
「麗子さん、麗子さん、お電話ですよ」
「だぁれぇ?」
 茶色の合板で出来た扉の向こうから、若い娘の不躾な声が返ってくる。智子はそんなことには慣れっこだったせいか、疑問にも思わずに用件を言う。
「あのね、澤田さんて男の人からお電話よ」
「さわだぁ?」
 そういってベッドから起き上がった麗子の髪は、以前よりも短くなっていた。腕部の包帯が痛々しい。彼女もまた岩崎医院戦での負傷者であり、岩崎医師より自宅療養を命じられた一人であった。ただ、翼曽が手加減をしたせいもあってか、包帯の下の傷は一生残るといった類のものではなく、治りかけが醜いために彼女が自主的に包帯を巻いているだけなのである。
「誰? 澤田……」
「知らない人? それなら、あたしがお断りするけど」
「いいわ、出る」
 母の手を患わせずとも、自分で何でも行う──麗子はそういう性格の女性であった。芥子色のタンクトップと黒のスウェットパンツという出で立ちの彼女は、母親が心配する以上の速度で階段を駆け下りると、受話器を取った。
「はい、麗子ですけど、どちら様です?」
 思いっ切り、意地悪なトーンでしゃべる。しかし電話の向こう側の人物は全く動じないどころか、逆に嬉々とした声を返して来た。
「ああ、石原麗子さんだね? よかった、捕まって。他の連中ときたら、全然家にいないもんだから──」
「はぁ?」
 麗子には、この澤田なる人物が何者であるのか、全く理解出来ない。しかし、相手は自分のことを、それなりに知っている様子である。しかも、「他の連中」とは一体?
「ああ、申し遅れました。私、澤田欣二といいます。といっても、一回もお話したことはないと思います。顔も──覚えていらっしゃるかどうか」
「はぁぁ?」
 いよいよ怪しい。何者であろうか。イタズラにしては、妙に凝っている。しかし、相手の声のトーンは、緊急、真面目、信頼、そんなイメージである。
「私も連中に本名なんか言ったことはありません。逆に、セレファイスのマスターって言ったほうが通りがいいんじゃないですか」
「……セレファイスって、あの、麻都との戦いで壊されちゃった、あの喫茶店の?」
「ええ、アミューズメント・パーティの連中がよく溜まり場として使っていた、あの店のマスターが私です」
 なるほど。「連中」とはAPを差し、「お話したこと」とはあの麻都との戦いのことを言うのか。なら、マスターの顔は見たし覚えているが、話はしたことはない──麗子は一人合点した。しかし、何でまた自分の所に電話を?
「実はあの時のヤツで足を骨折しまして、私は今動けない状態なんです。で、ぜひあなたに協力していただきたい事態になりまして」
「何があったんです」
 麗子は母親にジェスチャーで椅子を持ってこさせ、それに文字通り腰を据えて話を聞いていた。
「実は今、B大学の周囲に異様なフィールドが張られているのです」
「フィールドですって? それ、もしかして……」
 麗子はとっさにメモを取り始めていた。また、何かが起こっているのだ。それも、三たび自分たちに関係のある人が関連している──!
「前回のウチに張られていたヤツとは、質も規模も違うんで、何とも言えません。ただ、今回は部屋ではなく、街一つを完全に覆っていますんで、侵入は容易だと思うんですが」
「それで? 私に何を?」
 セレファイスのマスター──澤田はちょっとだけ口籠もった。しかし、躊躇している暇はない。その口は、再び開かれた。
「で、知りうる限りのAPの現役に電話をしまくったんです。でも、誰一人として電話に出ない。出掛けていると言うんですな。だから、私はこう推理したんです。多分、連中は大学構内で新たなる敵と戦っているんだな、と……」
 翼曽だ! 麗子の脳裏に、数日前の、あの悪夢が蘇った。ワゴンごと地面に叩きつけられ、そのまま地下二階まで押しやられたときの恐怖! 次第に周囲の鉄板がひしゃげ、自分に迫ってくるときの恐怖! 彼の〈刃物〉が自分の衣服を切り裂き、皮膚をかするときの恐怖──!!
「あいつが! 翼曽通が、いま学校に!?」
「恐らく──で、麗子さん、雪崩山くんのベストパートナーであるあなたに、お願いがあるのです。メモを用意して下さい」
 麗子は、微かに震える手に黄色い軸のボールペンを持つと、六つの穴の開けられたメモに手を添えて待った。
「あの二人の──飯島くんとあの女の子の能力は未知数であり、また不安定です。あれにだけ頼るようなことは大変に危険であり、絶対に出来ない。あ、メモの用意はいいですか。言います。あの、喫茶セレファイスのあった場所を覚えてますか?──」


「何だ!?」
 藻間と五六が缶ジュースを片手にホール前の路上に帰ってみると、そこにいるはずのAPメンバー──小川と加藤、それに割澤の姿が見えない。それどころか、ちらほらと現れ始めていた『映画監督とプロレスラー作家のバトルロイヤル対談!』と銘打たれた講演会の客さえも、全く見えなくなっているのだ。
「待て、藻間。これはおかしい」
 五六が周囲を見渡しながら言う。藻間はすでに小雨になっている空を見上げ、傘を畳みながら五六に応える。
「うん、おかしい。中に入ってみよう」
 二人は揃って学生ホールの扉を開ける。予想に違わず、中にも人っこ一人いない。暗い、湿った空間だけが、学生ホールを占拠していた。
「みんながどこかへ行ったというよりも……」
 五六がぼそっと言う。
「これが即ち、翼曽の攻撃と考えたほうがよさそうだな」
「分断作戦かい? しかし戦力を分散させるといっても、ウチはそんなに大きなキャンパスじゃない。探せば会えるんじゃないのかなぁ。それに、ヤツは一人だ」
 藻間は缶コーヒーのプルトップを開ける。と、その手の中から缶コーヒーは姿を消した。同時に、暗く影になっている学生ホールの隅で、金属的な音と火花が発せられる。「いたな、翼曽!」
「さすがだ……もしかしたら、腕を上げたのではないのかな? 藻間隆くん」
 破壊され、四散している缶を踏み潰しながら、水蒸気に覆われて影からゆっくりと現れる漆黒の巨人──翼曽通!
「全然コーヒーで濡れてない……それどころか、蒸発させているのか? すげぇ攻撃性のバリアだな。並みのPKではない」
 五六と藻間は互いに背を向け合い、ファイティングポーズを取った。
「私にかなわないのは、この間の手合わせで判っているだろう。無駄なことは止めるんだな。私は君たちを抹殺するのが目的じゃないんだ。邪魔だてしない限り、君たちに関与はせんよ」
「そうはいかん」
 五六が右腕を伸ばし、翼曽に向けて人差し指を立てる。
「超能力ってのは、あんたらみたいな使い方をするものじゃない。その歳まで残ってた貴重な能力だ、あんまり無駄に使わないほうがいい」
 藻間が左腕を伸ばし、こちらは中指を立てた。
「説教はあきあきだ。戦いに勝つことと、結果を良くすることは別物だ」
 翼曽は、その眼をきゅっと細くした。左手が帽子を被っていない頭に伸び、髪を掻き上げる。しかし、その手には指がなかった。
「この手を見るたびに、君たちのことを思い出すよ。不便でならない。私のこの能力を持ってしても、指を再生することは出来なかった。そう、私に耳がないのも、指がないのも、私の能力で唯一欠けている部分──人体の再生能力がないせいだ。彼女を手に入れれば、その程度のことも自在であろうに……」
 翼曽は一人嘆き、巨体を振るわせた。しかし、その眼は常に冷たく二人を追っていた。
「一人一人、地獄に行ってもらおう。君たちに係わる時間も惜しいが、前回の失敗もある。連合の力を嘗めるわけにはいかない」
 右手が藻間と五六に向けて伸ばされる。その手には、紅いマニキュアに彩られた長い爪を持つ、五本の指がついていた。〈刃物〉である。この五本の指が音速をもって相手に射出され、相手を思いのままに切り刻むのである。
 五六は念を目の前の空間に集中していた。空気を凝縮して、バリアを張るつもりなのである。そして、藻間もまた、空間を凝視していた。そのバリアの破られし時には、〈刃物〉を前回同様別の空間に弾き飛ばすつもりなのだ。
「負けるわけにはいかない! 決して……」
 二人の意識は、その一点に集中されていた。
「馬鹿な! 他のメンバーは一体?」
 その頃、外で藻間と五六の帰りを待っていた小川と加藤と割澤は、学生ホールに入って愕然としていた。
 ホールの中に、誰一人として人間がいないのである。雪崩山も、飯島も、里美も瀬川も名東もいない。誰もいないのである。
「割澤くん、名東くんと通信出来るかい」
「ちょっと待って下さい」
 割澤は小川に言われ、意識を集中した。静寂の刻が流れる。加藤はその間、ホールの中をぶらぶらと歩いていた。小川は心配そうに割澤を見つめる。
(名東、どこにいる?)
(割澤か? 判らない。君こそどこにいるんだ?)
(周囲の状況は? こっちは小川さんと加藤さん以外、みんな姿が見えないんだ)
(こっちも瀬川さんと外に出たとたん、君らも見えなきゃ中にいたはずの雪崩山さんたちも見えなくなっちまったんだよ)
「何だって?」
 小川が訊く。割澤はその問いに答えようとして小川のほうを振り返ったものの、確認のために再び名東にコンタクトした。
(待った、じゃ君は今、外にいるんだね?)
(ああ、そうだ)
 割澤は小川に返事を返す前に、素早く扉に手をかけていた。大きくホールの扉が開かれ、外の、小雨に煙る前庭が彼らの視界に飛び込む。
 しかし、その視界の中に、瀬川と名東の姿はなかった。
「一体、どうしたんだ? 割澤くん!」
 再び小川が訊いた。今度は驚きからか、声高になっている。割澤は少しだけ困ったような顔つきをしながら、ゆっくりと振り返って言った。
「──見えません」
「何だって?」
「見えないんです。テレパシーの状況からは、名東は目と鼻の先に存在するはずなんです。でも、見えないんです」
 小川は外を凝視した。嘗めるように視線をずらす。しかし、やはり人間は認められない。見えない──見えない?
「ヤツが、翼曽が、仲間が見えないようにしたってのか?これがヤツの作戦だと? 我々を分断させる──」
「そこッ!」
 不意に声が背後から響いた。小川と割澤は、とっさに振り向く。その眼は、急激に暗い場所を見たために物事を即座に掴むことは出来なかったが、僅かなタイムラグを置いてあるものを捕らえていた。
 火花である。
「翼曽ぉぉッ!」
 そして次に眼に入ってきた映像は、弾かれて背中からホールの床に転がる加藤の姿であった。その映像とほぼ同時に、二人は漆黒の巨人を見ることになる。
「さすがはAPきっての発火能力者、加藤全一郎くんだ──前回よりも鋭くなっている」
 〈雷羅〉よりの使者、翼曽通!
「どうした? 割澤と連絡がついたんじゃなかったのか」
 瀬川のこの問いに、名東ははっと我に返った。割澤とのテレパシー通信の最後の部分に、悪夢のような映像を見ていたからである。意識が途切れ、通信が一方的に切られる一瞬手前の映像──。
「瀬川さん、割澤たちは今、ヤツに襲われています」
「何だってぇ!?」
「一瞬、映像が見えたんです。場所はよく判りませんでしたけど、とにかく、ヤツが──翼曽通がいました。火花を散らしていたようにも思えます。多分、加藤さんの念動発火攻撃の痕跡でしょう」
 瀬川はうなりだした。瀬川だけは、一度も彼ら〈雷羅〉の使者と戦った経験がない。よって、彼には直接の経験がない分、想像による恐怖だけがある。それも、彼らと戦った同僚や後輩たちの怪我という「結果」だけは見ているのである。
 さらに悪いことに、瀬川にも、名東にも、攻撃力は皆無だった。
「助けに行く、というのも無理。しかし、他の連中に会うってのも出来ない──もどかしいな」
「しかし、取り敢えずこれでぼくらが翼曽に襲われる確率はなくなったわけです。急いで雪崩山さんか飯島さんを探しましょう。翼曽通に直接対抗出来る人と言ったら、あの人たち以外にはありません」
「そ、そうだな」
 うだうだしていても始まらない。二人は小雨の中を歩き出した。ホールの中に人がいないのなら、校庭の方向かもしれない──名東はそう考えていた。
「どこへお出かけかな? 名東くん」
 その声は、雨に濡れた芝生の美しい、中庭の方向から聞こえた。名東と瀬川の歩いていく方向とは逆方向の、校門と学生ホールのある本館との間に位置する円形の芝生地帯である。決して大きな円ではないが、中を横断するものもなく、その芝が見事に形良く育っていたのを名東は記憶している。
 その小さな中庭の方向から、聞き慣れた声が名東を呼んだのである。聞き慣れた──聞き慣れた? 違う、聞き慣れてるんじゃない、恐怖によって心に刻み込まれているんだ! 名東は叫びたい衝動にかられていた。この恐怖は、決して瀬川には判らないであろう種類のものであった。
 見る前から、誰が自分を呼んだのかはっきりと判っていた。本当は、その場から走って逃げたかった。しかし、身体がそれを許さない。両の足は大地に根を張り、名東の身体を縛りつけていた。彼の身体は次の瞬間、まるで操り人形のように、彼の意志とは無関係に、彼の頭を後方に捩じり向けさせていた。
 そして、名東の眼は、その人物を見てしまったのである。その、巨大な漆黒の人物を!
「もう精神の傷は癒えたかな? 名東くん。先日は不躾な訪問をしてしまったな。許してくれたまえ」
 耳のない顔が、心にもない台詞を吐く。眼がきゅっと細められ、威圧するような微笑みを浮かべる。
「翼曽……」
「こいつが、翼曽通か!?」
 瀬川が素っ頓狂な声を上げる。そして、身長二メートルの大男を見上げた。
 暗黒の邪神、翼曽通を──。


「お願い──間に合って!」
 麗子は小雨の靖国通りを、時速六十キロで走行していた。それ以上出す時もあれば、それ以下で走行することもある。しかし平均すれば、時速六十キロで自宅のある練馬区からシティを飛ばしてきたことになる。抜け道を駆使し、速度規制に逆らってはきたものの、時間は容赦なく過ぎ去っていく。麗子は焦っていた。
 タンクトップの上に羽織ってきたGジャンは、この間の翼曽戦の生き残りであり、数十の切り傷が残っている。安全ピンやエンブレムをつけていても、この傷が故意なものであるとは思えない──それほどに傷ついたGジャンだったが、彼女にとってこのGジャンは、他のものとは違う特別のものなのである。
 たかが数十の破れ目で破棄するわけにはいかない、大切な思い出の染みついたものなのだ。
「勇次クン……待ってて!」
 ハンドルを握っていた左手が僅かな時間だけそこを離れ、Gジャンの胸元を握る。その布地の感触を覚え込むかのように掌が蠢き、瞬時にしてシフトレバーに移動する。歯車の入れ代わる音と同時に、シティは五〇〇〇回転の壁を越えた。
 ホイールスピンの音けたたましく、麗子は突き進んだ。最終的な目的地は大学であったが、彼女にはその前に行かねばならない場所があった。そう、あの忌まわしい記憶も生々しいAPの隠れ家、倒壊した『光の都』喫茶セレファイスへ──!
「この角を左にッ!」
 半ば四輪ドリフト気味に一方通行の道路へ突っ込む。もう、なりふりなど構ってはいられない。麗子の頭の中には、たった一つの文章しか浮かんでこなかったのだから。
 勇次クンを護る──!!
「そこの角ッ!」
 車での侵入のおよそ不可能であろう道へ、麗子は無理矢理シティを突っ込ませた。ドアミラーを粉砕しながらもシティは小路を突き進み、そしてついに黄色と黒で彩られたロープに囲まれた目的地に到着したのである。
 エンジンの軽い機動音と、ボンネットを叩く雨音だけがその空間を蹂躪していた。喫茶セレファイス──崩壊した『光の都』。
 しとしとと雨の降る中、麗子は傘もささずに外へ飛び出し、その瓦礫の山へと分け入るようにして進んで行った。彼女の頭の中に、もう一つの文章が蘇った。あの、セレファイスのマスターからの伝言である。その伝言を果たすことこそが、APを救い、ひいては勇次クンを救うことになる──麗子の精神が次第に統一されていく。透視を行うためだ。この瓦礫の中に、彼らを救う「もの」が埋もれているのだ──!
 透視能力は、眼で光を捕らえる、いわゆる「視力」とは無縁の能力である。「見える」透視ではなく、「見る」透視は、その能力を持つ者にとっても過酷な作業となる。
 確実に存在する、その形を自らの記憶の引き出しにも持っている物体の透視は、そのイメージを掴みやすいために「見えて」くることが多いという。しかし、掴みどころのない、自分の知らない未知の物体を、しかも必ずそこにあるとは限らない状況下で透視するという場合は、「見る」ことが出来ない場合もあり得る。「見えて」いても、それが検索すべき「もの」なのかが判断出来ない場合があるからである。
 麗子の視線が嘗めるようにセレファイスの上に走る。状況はよくない。しかし、麗子には自信があった。使命感もあった。そして何より、勇次を想う強い意志の力があった。この強靱な精神力こそが、ESPを突き動かす原動力なのである。
 麗子の視線は、『光の都』の敷地内を三周半していた。そろそろ、何か引っかかるものが欲しい──そう考えていた彼女の頭脳に、何かが引っかかってきた。
「これだわっ!」
 やおらにしゃがみ込み、麗子は瓦礫を掘り始めた。コンクリートの破片、ガラスの粉末、尖った建材、舞い上がるアスベスト、砕け散ったタイル──己の指が裂け、血を滴らせていることも忘れ、麗子はただひたすらに掘った。
 様々な破片が宙に舞い、次第次第にその掘られた穴は広がっていく。割れたコーヒーカップの鋭いエッジが彼女の右の掌に大きな切り傷を作ったとき、それはついに姿を現した。
「これが……『結界器』……!!」


 雨に打たれ、麗子はその片手に収まる黄金の三角錐を天に高々と捧げ持った。
 髪が濡れ、額に貼りついたその姿には、鬼気迫るものがあった。
「何じゃ? この不快な感覚……」
 闇の中で、老人の嗄れた声が発せられた。独り言にしては、音量のレベルが高い。側にいる誰かに聞かせるために発せられた言葉なのかもしれない。しかし、光の皆無なこの闇の空間に、声を発した老人以外の、言葉の判る生き物が存在するとはとても思えない──気配が全くないのである。
「……イグ、イグはいずれに?」
 再び、嗄れた声が暗闇の空間に放たれた。声の主が老人の男性であるという以外、この空間では情報を掴むことは出来ない。風の臭いすら、生き物の存在を消し去ってしまうからである。
 そこは、深い深い洞窟の中のようである。
「あたしならいるわよ、おじいちゃん」
 声が返される。しかし、その声の質は老人のそれと比べ、全く場違いの感すらあるものである。恐ろしく若い、少女の快活な声が、嗄れた声に返事を返していた。
「ナグか……すぐに翼曽のもとへ飛んでくれ。嫌な感じがするのじゃ……そう、吐き気をもよおすような感覚じゃ」
 老人が、曾孫ほどになりそうなくらいの若い少女に向かって、半ば懇願するように言う。暗闇でその表情は伺うことこそ出来ないものの、弱ったような顔をして言葉を発しているであろうことは容易に想像出来る。ナグと呼ばれた少女のほうもそれは了承済のことらしく、これといった文句も言わずに応える。
「イグはいないの? じゃ、イグを呼んでついていてもらうといいわ、おじいちゃん」
 この言葉に破顔した老人の表情が、気となって暗闇に漂う。
 ナグは──背の小さな、髪の短い、瞳の大きな少女ナグは、怪老人の言うままに、残留思念に少女特有の香りを残しながら、御茶の水はB大学へと去っていった。


「君と山崎里美を分断出来なかったことを、全くもって残念に思うよ、飯島君」
 巨大な漆黒の壁が、二人の前に立ちはだかる。飯島は里美をかばうかのように前方に出、ファイティングポーズを取る。その行為が無駄であることを知りつつも、彼にはそれしか出来ない。
 雪崩山が学生ホールを一歩出た瞬間から、目の前に翼曽が立っていた。テレポーテーションでは、ない。テレポーターである飯島には、ほんのわずかではあるが、テレポートアウトの瞬間の空間の歪みを体感することが出来る。その、むずむずとした感覚がなかった。翼曽は、テレポート以外の方法で、突如として自らの前方に出現したことになる。
「もう一度だけ、言う。山崎里美はお前らの手にはおえん。我々〈雷羅〉が管理する」
「黙れっ!」
 飯島が、天から降るような翼曽の声を遮った。その拳は怒りにうち震えていた。
「貴様らのせいで、どれだけ彼女が被害を被っていると思う? 彼女だけじゃない! 俺の仲間たちが──先輩たちが──周囲の人々が──どれだけ傷つき、心悩ましたことかッ! 貴様だけは、絶対に許さない! 俺の命に代えても、必ずお前を、〈雷羅〉を倒してやるッ!!」
 飯島はそこまで一気に言うと、自分の背に隠れている里美を見た。脅えるような表情の中にも、飯島への信頼が頑として存在していた。
 実際、翼曽出現の寸前まで、飯島は迷っていた。彼女を、里美を巻き込むことが本当に取るべき道なのか否か──しかし状況が熟考を許さない。飯島に取れる方法はたった一つしか残されていないのだ。
「いくよ、里美」
「はいっ!」
 二人は同時に精神を集中し始めた。二人が自らの意志で「神格」の能力を使う、初めての場面である。どのような状態になれば、その能力が使用可能になるのかは、二人にも判らない。しかし今、目の前にいる強大なる敵を粉砕するには、どうしてもあの「神格」の力が必要なのである。例えそれが、お互いの命を縮めるものであったとしても──!
「ふん」
 翼曽は、そんな二人を眺めながら嘲笑った。
「この私が一体何のために、自らの寿命を縮めてまでこの精神空間を切り開いたのか、全く判っていないようだな」
 その大きく開かれた黒い両腕の中に、稲妻が迸った。高圧電流である。翼曽の、隠されたもう一つの攻撃能力である。
「趨るがいい、〈稲妻〉よ!」
 その言葉を待っていたかのように、翼曽の両腕の間で燻っていた〈稲妻〉が、まさしくゼウスの雷の名に相応しい速度と威力を持って、二人目掛けて飛び出していった。
「危ないっ!」
 そう思ったのとほとんど同時に、飯島は里美もろともテレポートで〈稲妻〉から逃れていた。脳神経の伝達速度がほんの僅かながらに〈稲妻〉の到着よりも速かったのだ。しかし気合の入っていない不完全なテレポートは、彼らの身体を学生ホールの隅に具現化させていた。
「ほう……精神空間の枷を嵌められていながら、よくそこまで跳んだ。褒めてつかわすぞ、飯島君」
 翼曽が頬を吊り上げてニヤリと笑う。その表情には、最初に出会ったときの紳士的な趣はなく、むしろ最初の刺客である麻都須の、あの屍神のような冷酷さがそれを支配していた。
 飯島は、その翼曽の表情を垣間見ながら、自らの胸の焼け焦げた跡を摩った。ジャケットの覆っていないTシャツの部分が、丸く焦げていた。あとコンマ数秒遅いだけで、彼の身体は炭化していたかもしれないのだ。額の汗を拭いながら、飯島は背後の里美をかばって態勢を建て直した。
「判っただろう。この翼曽様の精神空間は、お前たちの能力を半減させる一方、私の力を倍加させる。さすがに麻都の精神障壁と違って、お前たちの能力を無力化さけることは出来ない。その代わりと言ってはなんだが──」
 翼曽はここで話を切り、立ち上がった飯島に向かってゆっくりとその歩を進めた。一歩一歩を楽しんでいるかのように、その歩みはのんびりとしたものであったが、それは換言すれば着実な歩みである。
 死への、着実なる一歩なのだ。
「お前たち一人一人の力はさほど恐れるほどではない。しかし、団結の力は侮れない。この間の病院での戦いでは、全くもって恥をかかされたからね。だから、この空間では、お前たちには別れてもらった」
 翼曽の眼が、きゅーっと細まった。飯島の瞳の奥底を覗き込む。
「そう、精神空間の副次的メリットでね──エネルギーが空間を歪めて、いくつかのポケットを造り出しているんだ。その、それぞれのポケットに、君のお仲間には落ちてもらった。なるたけ人数を少なく割ってね。そして、それぞれのポケットに、私が待ち受けているのだ」
 ゆっくり、ゆっくりと翼曽が飯島と里美に近づく。飯島は下がれるまで下がっていた。もう、里美の背中はホールの掲示板に触れてしまっているのだ。黄色いスウェットスーツが、掲示板から突き出している画鋲と擦れ合って引っかかる。
 翼曽の口が、間歇的に開かれる。ほぼ一定のリズムを刻みながら、翼曽はしゃべり、休んで歩き、また言葉を紡いでいた。
「それぞれのポケットに待っている私は、私のドッペルゲンガーとも言うべき存在だ──同時存在でありながら、別行動を取ることができる。それでいて、能力はこのオリジナルの私と同じなのだから、こんな美味しい手を使わないわけにはいくまい? 飯島くん……」
 もう、かなりの距離まで翼曽は近づいていた。飯島は翼曽が手前一メートルを切った段階で、あることに気づいていた。
 翼曽の息が、麻都同様に硫黄臭いのである。
「翼曽……貴様は……」
「命乞いならもっと早めにしておくべきだったねぇ、飯島くん。もう今の私には、慈悲の心は存在しないのだよ──君を殺してでも、山崎里美はもらっていくよ」
 再び翼曽の腕の中に、〈稲妻〉が発生していた。


「飯島たちをどこへやった、翼曽!」
「お前の知らぬ、別次元の空間さ」
 校舎の壁面に叩きつけられながら、雪崩山は質問を翼曽にぶつけていた。ぎりぎりのラインでPKバリアを張り、激突の衝撃を緩和する。しかし、痛みは少しずつ広がっていく。既に雪崩山は翼曽のPK攻撃を受け、四回壁に打ちつけられていた。
「たった一人でこの私と張り合おうなどとは……君はもっと利口な人かと思っていたのにな。残念だよ、雪崩山くん」
 雨に濡れた暗黒の破壊魔・翼曽が笑いながら言う。その眼には、哀れみの色すら浮かべられていた。
 睨みつけられた側の雪崩山も、軽く微笑みを作る。まだ、負けたわけではない。圧倒的な力の差はあるものの、彼の脳裏に刻み込まれた麻都須との対決が、彼に何かを囁きかけていた。
 ──こいつには負けない!
「ほう……その微笑みは一体どこから来るのかな? 雪崩山くん。私に勝てるとでも思っているのかな」
「一言だけ言っておく」
 雪崩山は傷めた右肩を軽く押さえながら立ち上がり、屹立する翼曽に言い放った。
「お前は麻都よりも弱い──俺はお前に勝つ!」
「よくぞ言った! 来い、雪崩山!!」
 雪崩山の右腕に気が集中する。そして僅かなタイムラグの後に、噴出したPKの束が翼曽の左脚を掬いにかかる。翼曽は軽く跳躍することによってこれを避けようとしたが、翼曽の死角から飛び込んで来る雪崩山の気の込められた左の拳に捕らえられてしまう。
 そして、轟音とともに突っ伏す巨体。
 一瞬の隙ではあったものの、翼曽を雨に濡れたコンクリートの上に倒れ込ませることに成功したのである。
「う……む」
 頭を数回振り、ゆっくりと起き上がる漆黒の巨人に対し、路上に出た雪崩山は二発目を放つべく構えた。呼吸を整える。拳に気を溜め込む。そして、放つ!
「ごおおっ!」
 二発目は運良く、翼曽の顔面にヒットした。前庭の芝生に突っ伏す二メートルの巨体を尻目に、雪崩山は精神統一を開始した。このチャンスを逃せば、翼曽を倒すことは出来なくなるかもしれない──あの麻都をも上回るであろう精神力の持ち主である翼曽を倒すには、最初から渾身の力を振り絞って対決しなくてはならない。雪崩山はがっちりと両手を組み、胸の前に持って来て力を込めた。
「だッ!」
 雪崩山の双拳が翼曽に向かって伸ばされた。凄まじいまでのPKの束が翼曽の背中に向かって迸った。オーラの見える人であれば、この輝きはまさに神の所業であると感じるであろう。それほどに、この雪崩山のPKは強力に収束されていた。
 その束に飲み込まれ、翼曽の身体が波打つ。周囲の空間にも歪みが生じた。前庭の芝生は暴風の吹くがごとくさざめき、学祖の像は粉々に砕け散った。前庭を取り囲むコンクリートも次第にひび割れ、舞い上がっていく。光が曲がり、様々なスペクトルを見せた。
「消えてなくなれ、翼曽の邪悪よ!」
 雪崩山の渾身の技が、翼曽の巨体から邪悪な能力を奪おうと作用する。それは決して人の命を奪うものではないが、確実にその人を廃人に追いやるという。分子レヴェルの精神破壊とでも言うべきか──。
「何っ!?」
 しかし、そんなPKの暴風の中でも、翼曽は立ち上がった。身体を少しずつ崩しながらも、翼曽は一歩、また一歩、雪崩山に近づいていった。それでもなお、雪崩山はそのPKを止めることはしない。押し返す努力を試みる。
 PKは、精神の力を直接具現化させるものである。故に、その精神力の消耗は他の行動能力とは比較にならない。無謀な使用は、それこそ死に直結する。雪崩山は訓練を受けた実用サイコキノではあるが、ここまで長時間にわたってPKを収束し、放出した経験はない。いつ生命の灯し火が消え去っても、何の不思議もないのだ。
 ぱん──何かが弾けた。
 弾けた、と感じたのは雪崩山の視覚だけではなかった。聴覚も触覚も、その感覚が偽りのものではないと彼に囁いた。
 その時雪崩山は、その弾けた感覚が自らの精神の崩壊の音であると思った。
 しかし──実際は彼の予想とは異なっていた。
「勝った……のか?」
 彼の目の前から、翼曽通の巨体が消え去っていたのである。
 雪崩山にも判然としなかったが、幾度眼を凝らしても、彼の視界にあの二メートルの巨人の姿は入って来なかった。くらくらとする不安定な頭を二・三度振りながら、雪崩山はしばしその場に立ち竦んでいた。
「勇次クンッ!!」
 そんな彼の最初に復活した感覚は聴覚だった。その彼の耳に入ってきた声は、ひどく懐かしく感じられるものであった。そして背後から飛びつく、柔らかい感触。雪崩山は飛び上がらんばかりに驚いた。
「れっ、麗子か!? どうしてここに……」
「そんなことより、無事でよかったァ! 無事で……」
 振り向きざまに唇を重ね合う、恋人たち。二人は雨に濡れながら、ゆっくりと身体を離した。
「何でまたここに?」
「これを」
 そういって麗子は、ナップサックから先程セレファイスで掘り当てた三角錐を取り出して雪崩山に渡した。それを訝しげに見る、雪崩山。
「こりゃ何だ」
「セレファイスのマスターから頼まれたの。この、精神空間を打ち破る必殺の防御兵器だって」
「はぁ?」
 再び雪崩山はその三角錐を手に取り、眺める。それは一辺が五センチほどの、金色のワイヤフレームで出来たピラミッドである。四つの面は薄いプラスティックのようなもので覆われ、中には四つの頂点より伸びたワイヤによって宙吊りとなっている石のようなものが見える。
「何? エジプトのお守りか何か?」
「急いでるの。仕事しながら説明するわ」
 そう言うと麗子はナップサックを担いで走り始めた。その後を追う雪崩山。
「あ、藻間さんと五六さん!」
 走り去ろうとした中庭に藻間と五六の姿を発見した雪崩山は、麗子に待つように指示すると、二人の方へと走り寄っていった。
「おわっ!」
 それとほぼ同時に、藻間と五六に今まさに詰め寄らんとしていた翼曽の巨体が、強烈な光と圧力を残して雲散霧消した。
「な……何だ?」
 がっくりとコンクリートに膝をつき、ことの次第を理解出来ない二人に、雪崩山は背後から話し掛けた。
「大丈夫ですか? お二人とも」
「雪崩、お前が助けてくれたのか?」
「は?」
 雪崩山にも、何が何だか判らない。ただ判ることは、翼曽が三人の目の前で消滅した、という事実だけである。
「これの御陰じゃないの?」
 三人の後ろで麗子が、例の三角錐を持って微笑んでいる。自然と三人の視線は、その小さなマスコットのようなものに集中した。
「それは……?」
「『結界器』」
「『結界器』!?」
 雪崩山も藻間も五六も、説明を欲して麗子を見つめた。話さないわけにもいくまい。麗子は時間を割くことももどかしそうに、語った。
「そう、これは『結界器』──あのセレファイスのマスターが大学紛争時代に完成させた、窮極の結界発生装置なんですって。セレファイスが霊的に護られていたのも、この結界器が五大を形作っていたからなんです」
「五大とは?」
 五六の質問に、麗子はマスターに教えてもらったことをそのまま伝える。
「えっと、つまり、この世は五つの元素で構成されていて、地・水・火・風・空の五大元素を『五大』って呼ぶんですって。で、セレファイスも、この五つの場所に結界器が黄金率を結ぶように配置されていたから、護られていたんだそうです」
 麗子はそう言いながら、三人に一つずつ結界器を配った。それに見入る三人のAPメンバー。
「元々、この結界器は雪崩山教授の研究室をE研から護るためのものなんで、今でも学校の中には五大が存在するってマスターが言ってたわ。何でも、地・水・火の五大は一階に、風のがグラウンドに、空のが四階の『空かずの間』にあるんですって」
「そうか! で、結界器によって造られた結界の中で翼曽と対決すれば!」
「精神空間とヤツを分断することが出来る!」
 五六と藻間が同時に立ち上がり、叫ぶように言った。雪崩山もなるほどと思い、賛同を現すべく遅れて立ち上がった。
「そうか……俺たちの前で翼曽が弾けたのも、この結界器の御陰なんだ。だから、別の空間の分断されていたはずの俺と藻間さんや五六さんが、こんな簡単に出会えたりしたんだ」
 何か物言いた気な麗子の方を向きながら、雪崩山は考えを整理するように続けた。
「とすれば、俺が倒した翼曽や今の翼曽はヤツの分身に過ぎない。本体は別の空間にいるんだ。何としても、ヤツを結界器の効用範囲の中に閉じ込める必要がある」
「なるほどな。では、こうしよう。分担して、この結界器を五大に置いてこようじゃないか。そして、最後の一個をセットする前に、ヤツをその巨大なピラミッドの中に連れ込む」
 藻間がしたり顔で言う。しかし、その意見には五六が難色を示した。
「しかし、分身のヤツは結界器に弱いかもしれんが、本体までもがこんな簡単に退治出来るとは限らない。逆に、一個でもヤツに奪われたら──」
「ヘタすれば作戦はパァになる、か……」
 雪崩山が続ける。藻間はちょっとばかり困ったような表情を浮かべ、五六は天を仰いで妙案を探る。雨は霧雨に変わっていた。
「よし、こうしよう」
 五六がポンと手を打って、三人に言う。
「もう一組でいい、メンバーと接触しよう。で、攻撃型エスパーを必ず含むようにして、四つチームを作ろう。これで、地上四つの五大に結界器をセットする。サイコキノを配置し、さらに結界器を持った我々を、そうおいそれと分身で攻撃することも出来まい。最後に、飯島と山崎さんに翼曽の本体を結界の中心に引っ張ってきてもらって、雪崩、お前が一気に空の五大に結界器をセットするんだ」
「判りました、やりましょう」
 暗黒魔神・翼曽通への反撃が、ついに開始されようとしていた。
 雪崩山も、麗子も、五六も藻間も、口には出さないが、心の中では祈るように呟いていた。
 結界器が効くように──そして、飯島と里美の能力に、この最悪の事態の収拾を期待して──四人は他のAP部員を捜して校舎へと向かって走って行った。

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