17 ファイト!
「だあああーッ!」
目に見えない亀裂が空間に走り、空気が渦を巻いて擦れ会う。その空気の断層に飲まれるかのように、名東の細い身体は宙を舞った。すでに彼の全身は傷だらけになり、精神は疲労し、もはや受け身を取る気力も体力も残されてはいなかった。
それは、瀬川にとっても同じことであった。彼の身体は、翼曽の攻撃を受けるには余りに脆弱すぎた。敵の力を受け流すことすら出来ないのだ。彼は内心、今更ながらに運動不足と経験不足の日々を呪っていた。
名東の身体の打ちつけられた場所がコンクリートの前庭であったなら、彼は即死していたであろう。しかし、彼は九死に一生を得ていた。雨の水滴を吸って柔らかくなっていた芝生が、彼の身体を優しく受け止めてくれる。
「もうお終いですかな、名東くん。私は別に貴方がたを殺そうといっているんじゃありません。一言、うんと言ってくれればそれでいいんですよ」
翼曽は軽く微笑みながら、倒れ込む名東と瀬川を見下ろした。言葉は呟きに近いトーンである。名東にも瀬川にも、その声は遠くからのもののようにしか聞こえない。
「今頃は、もうひとりの私が山崎里美を連れ帰っていることでしょう。私の役目はすでに終焉を迎えた──」
その翼曽の不敵な勝利宣言の語尾が、かすかに揺らぎを見せた。彼の心の中に、今までなかった不安要素が生まれたのだ。それは、彼の背後から、確実に近づいていた。
「何だ!?」
「翼曽ぉぉぉッ! 喰らえっ!!」
翼曽の背後に当たる、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の陰──そこから飛び出したものは、弾丸にも似たPKの塊であった。翼曽はその弾道を見切り、瞬時にして身を翻らせながら言う。
「──雪崩山? 何故このフィールドに──」
「去れ、翼曽! 塵になれいッ!」
PKの発射方向とは逆の方向から発せられたこの声に、思わず翼曽は振り向いていた。反対側から回り込むようにして現れた藻間と五六である。手には何か、ピラミッド状のものを持っている。
「翼曽、覚悟!」
雪崩山も渡り廊下の端から飛び出し、翼曽に向かって行く。その手にも、ピラミッドが握られていた。その奇妙な輝きは、翼曽に新たなる恐怖を与えていた。
距離が縮まる。圧力が強まる。圧力──結界器の発散する力が、翼曽には圧力となって伝わっているのだ。悪魔の形相が一変した。混乱、恐怖、そして驚愕!
「しゃッ!!」
輝くピラミッドを凝視していた翼曽の身体に、変化が起こった。
空気の摩擦る音が鳴り響き、翼曽の黒い巨体が次第に切り刻まれていく。分身の存在が崩壊しているのだ。断末魔の悲鳴が空を切り裂き、それが摩擦音と重なって空間に響き渡った。その中で、鬼の形相で翼曽が雪崩山を睨みつ けながら、言う。
「ふふふ……この精神空間の中では、その小細工もさほど効かぬ……覚悟するがいい……」
「黙れッ!」
とどめの一撃とばかりに、雪崩山が左掌に溜めたPKを放つ。七色のスペクトルを煌々と散らせながら、翼曽の分身はその身体を完全に崩壊させた。
「な……雪崩山さん……」
「大丈夫か? 名東! 瀬川さんも……」
雪崩山は名東に駆け寄り、その身体をそっと抱き上げて訊いた。名東はその問い掛けにゆっくりと頭を振り、眼を細めた。
「そうか……微笑える元気があるのなら、大丈夫だ。瀬川さんは?」
「ちょっと捻挫ぎみだが、身体に別状はない」
五六が冷静に答える。藻間に担がれ、瀬川は情けなさそうに微笑った。声を出す気力はないらしい。
「どこかで休ませられればいいんですけど……翼曽が黙って見ているかどうか」
「心配はいらんよ。こっちには結界器があるんだ。今のを見たろう? そんな簡単に手は出せまい」
藻間が気楽に言う。その巨体が瀬川を担いだまま、ゆっくりと学生ホールに向かって歩き出す。
「ホールは大丈夫かなぁ」
「あと何体、ヤツの分身が存在するのか……無限に存在するのか、それとも倒せば減るのか……それすら判りませんからね。ホールにいないとは限らないでしょうし、それにまだ加藤たちと遭遇出来ていないことを考えると──」
五六は雪崩山の言葉を聞き、何かに気づいて表情を変えた。次の行動に移るまでのロスタイムは全くなかった。彼は咄嗟に、雪崩山の語尾を遮るかのように叫んでいた。
「待て、藻間! お前だけでホールに入るな! もし分身が減っているとしたら──」
その言葉と、PKの迸る衝撃が走るのとは、ほとんど同時であった。学生ホールに繋がる扉に打ちつけられ、藻間と瀬川はホールから外へと弾き飛ばされていた。
「しまっ……」
語尾まで力が入らない。したたか腰を打ちつけた藻間の次の行動は、倒れ込んだ瀬川を起こすことではなく、ホールの中を指差して叫ぶことであった。
「結界器が!」
その言葉に突き動かされるように、雪崩山と五六が駆け出した。乱暴にホールの扉を開き、その中を見やる。
黒い邪気が漲っていた。「色」として認識出来るほどに、ホールの中の空気はどす黒かった。そして、一〇〇メートル近く奥にあるホールの掲示板には、辛ろうじて立ち上がっている男が一人と座り込んでいる男が二人、追い詰められている様が黒い闇の波間に見え隠れしている。
「よくぞこの罠、破ってやって来た──諸君。しかし、君達の小細工もここまでだ」
追い詰められていた男たちの姿がゆらりと揺らぎ、雪崩山たちの視界から消える。そしてその手前の闇から、まるで壁から抜けて現れたかのように突然姿を現す、漆黒の魔神!
「翼曽!」
五六と雪崩山は、同時に拳に気を集中させる。しかし、その気を放つことは出来ないでいた。その眼に、信じ難い光景を焼きつけてしまっていたからである。
「面白いオモチャだな、これは……忌々しい力場を形勢している」
その巨人の右掌には、つい先程まで藻間の手に握られていたはずの結界器があった。ぶつかった、たった一瞬のうちに翼曽は藻間から結界器を奪取していたのである。
握っている──持つことが出来る! その衝撃の事実は、雪崩山と五六の心に動揺を生じさせるには充分すぎた。結界器の結界能力は、少なくとも分身には完璧に通用するものだとばかり思っていたからである。それが、まさか結界器を奪われてしまうなどとは──まさか、この眼前にいる翼曽は分身ではなく、「結界器の通用しない」オリジナルなのか──?
──握り潰される! 藻間は眼を瞑った。自分の軽率な行動によって、唯一の突破口であったはずの作戦──『結界器作戦』の要である結界器を奪われ、しかもそれを目の前で握り潰されようとは! 藻間の心の中に、後悔の念が怒濤のように渦巻き始めていた。
「これ一つでも相当の能力を持っているようだな……分身の身では潰すことも出来ん」
そんな翼曽の不敵な表情が、一瞬だけ曇った。心外な事実に、軽い嫌悪の念を抱いた様子である。翼曽の「分身」は素直に結界器の威力を認め、その対策を練るかのように天を仰いだ。
その眼は、空の一点を凝視していた。何か、懐かしいものでも見るかのような、そんな眼差しである。
「この力場の感覚はどこかで味わったような気がするな……そう、あのくそ忌々しいセレファイスとかいう喫茶店の周囲だ。あれはこいつによる疑似結界だったのか……」
呟きにも似た翼曽の言葉に、雪崩も五六も我が耳を疑っていた。なぜ──なぜ翼曽がセレファイスの「結界」を知っているのか? それに「疑似結界」とも言った──結界器の造り出す結界は、純粋な結界ではないというのか?
疑似結界と純粋結界を見分けるほどの能力が、翼曽にはあるというのか?
「そうか……あの店にも、これと同じものが設置されていたのだな───だから、麻都があれほどまでに苦心していたのか。直接店内にPKをねじ込むことができなかったのも頷けるな」
翼曽の分身は、独りごちて言った。
「そして今、今度はこの私を葬り去るために、この学校の周囲に疑似結界を張り巡らそうとしているわけか……面白い。分身の私にすらこの程度の効果しかないオモチャでオリジナルが葬りされるものなら、試してみるがいい! ただし、私からこのオモチャを取り上げることが出来たならば、の話だがね……」
耳まで切れ上がった口が、いびつに歪んで微笑みを湛えた。雪崩山も五六も初めて見る、翼曽の本来の笑い顔である。その醜悪な様は、あの麻都須のものをも上回る、まさしく邪悪の権化そのものであった。
「時間がありません。五六さん、麗子を連れて計画通りにお願いします」
雪崩山は一歩前に出ると、自分の結界器を倒れ込んで起き上がれない藻間に投げて渡し、眼前の強敵に向かって言い放った。
「こい、分身野郎! 貴様の能力なぞオリジナルの半分にも満たん! 結界器の助けなぞなしに、貴様を原子の森に帰してやるッ!!」
「勇次……!」
麗子はその、悲愴な決意に燃える男の背中に抱きつこうとした。しかし、五六の右腕がその行く手を阻む。
「何故!?」
「引き返せない路に入った男の背中は、もう女の帰る場所にはならない」
五六は口調こそ優しかったが、厳しい視線で麗子の行動を制した。
「その路から帰ってくる男の胸こそが、女の帰る場所になるんだ」
五六は、麗子を見てはいなかった。麗子に視線を向けながらも、その視線は麗子を貫いて雪崩山の背中に突き刺さっていたのである。
「雪崩……死んだらただじゃおかんからな……」
「エンギでもない、そんなこと言わないで下さいよ。麗子が余計に信用しなくなっちまう」
雪崩山は振り返ることなく言うと、右腕に気を集中させ始めた。PKの束が大きく膨れ上がり、次第に熱を帯びるまでになる。敏感な人間であれば、たとえ超能力を持たない人であっても、その空間の異変に気づくことは出来たであろう。膨大なエネルギーによって、空間が次第に歪み出していたのである。
雪崩山は、やや落とし気味だった視線を翼曽の視線と絡む位置まで上げ、脅すように言葉を吐いた。
「麻都を半死に追いやった技だ……分身なんぞは、冗談抜きで原子に分解する」
「それだけに消耗の激しい技だ。そんな大業を、たかが分身である私を倒すために使ってしまってもいいのかね? 雪崩山くん」
翼曽の顔つきが次第に醜く崩れていく。
今や、あの冷静で紳士的な口調を持つ過去の翼曽の面影はどこにも残っていなかった。そこに存在しているのは、無差別な破壊の意志を持つ、ただの醜い超能力者でしかなかった。
「ひとつだけいいことを教えてあげよう、雪崩山くん……私はこの精神空間が造り出した最後の分身だよ。もう、他に分身は存在しない。あとは、オリジナルの翼曽通がいるだけさ。でもね、だからといって安心してもらっちゃ困るんだ──」
そこまで言うと、翼曽は一息ついた。右掌に持つ結界器をゆっくりと眼の高さまで持ち上げ、転がすように玩ぶ。そうして数秒の間を持たせた後、彼は再び言葉を紡ぎ始めた。
「翼曽の分身は数が多いほど薄められる──力が分散してしまうんだ。そして今、翼曽の分身は私ただ一人だ。お判りかな? 雪崩山くん。私は翼曽の唯一の分身だ──つまり、翼曽と同等の能力を持つもう一人の翼曽通ということなのだよ」
「だから結界器も素手で掴めるとでもいうのか? ハッタリはよせ! それにな、お前がオリジナルと同等の能力を持っていよーがいまいが、そんなことは関係ない。俺のPKがお前を消滅させる、ただそれだけだ!!」
雪崩山は言うが早いか、猛然とダッシュしていた。翼曽もまた、結界器を持たない左手を瞬時にして前方に上げ、〈刃物〉の射出体制を取っていた。
「勝負!!」
二人のPKが、あたかも火花の如く闇の空間に舞った。
「ほお、我が分身も残りはたった一人になってしまったようだ……今回は手抜きなしの戦いだが、それは君たちにとっても同じことのようだな」
何もない上方の空間を睨んでいた翼曽が、呟くように言った。少しばかり残念そうな、それでいて自信あり気な、不敵な物言いである。もちろんその言葉は、壁際に転がる飯島に向けて放たれた言葉であった。
「しかし、君にも感心するよ。使いこなせない能力を使ってまでして、山崎里美を護ろうとしている──正直言って私は今、君の行為に感動しているのだよ」
心にもないことをすらすらと口に出す。翼曽の精神は今、ハイな状態になっていた。
たとえ分身を全て倒されたとしても、眼前に立つ山崎里美さえ奪うことが出来たなら、それで作戦は成功なのである。自らに受けた負担や損傷も多いが、それを補うに余りある能力が手に入るのだ。アンプリファイア──超能力増幅能力という、夢の能力が。
翼曽の眼には、もはやゆっくりと立ち上がろうとする満身創痍の飯島など入ってはいなかった。その後ろにぴったりと寄り添い、涙を溜めて飯島に向かって叫び続けている里美のみが、その視界に留まることを許されていた。
翼曽は鼻で笑い、ゆっくりと飯島の所まで歩いて来ると、飯島に向けてではなく、里美に向けて語りかけた。
「山崎里美──お前は我々〈雷羅〉が管理する。来るがいい」
「いやッ!」
里美は大きくかぶりを振り、長い髪を頬に張りつかせて叫ぶ。その細い手は、しっかりと飯島の肩を掴んでいた。いたわりと、信頼と、そして愛情の念を持って──。
「里美……」
しかし、今の飯島には彼女に応えられるだけの力は、すでに残されていなかった。もう、精神的にも肉体的にも、限界点が見え始めていたのである。必殺の超超能力は制御 不能、得意のテレポートは精神空間によってその飛距離を削られ──殴りあいでかなうとも思えない。
勝てないのである。決定的に、翼曽に勝つ方法は皆無なのだ。
「すまない……」
弱音を吐くことなど滅多にない飯島ではあったが、精神的にかなりのダメージを負った身体である。里美の掌より伝わるものに応えられない自分に、つい弱気になる。
しかし、そんなことは翼曽にとっては何の意味も持たない。逆に、それは飯島の敗北宣言を意味するのだ。今の翼曽には、それ以外の解釈は存在しなかった。
「お前を護るものはもう何もない──我々はお前を取って食おうというのではない。ただ、少しばかり協力してもらいたいのだ。命と自由、生活の保証はしよう」
飯島を視界の外に置き、翼曽は里美に諭すように言った。満面に勝ち誇った表情を湛えて──。
「何だ?」
言い終わってから、翼曽ははっとした。里美の表情が、可愛げな泣き顔から一変していたからである。
かつてない厳しい眼をもって、里美は翼曽を睨みつけていた。限りない闘志が、その大きな瞳に宿っていた。頬に、額に、首に貼りついた髪を、払おうともしない。軽く噛まれた下唇が、微かに震える。
悪の言うなりにはならない! 口には出さなかったが、里美は心の中で叫んでいた。自分のためにも──飯島さんのためにも──絶対に!
今まで、こんなに心が熱く燃えたことはなかった。激した経験がなかった。自分のためだけでなく、他人のために激昂したこともなかった。里美はあくまでおとなしい、感情を大きく振幅させない性格の少女だった。
母が交通事故で重症を負った時も、妹が病気で死んだ時も、クラスで親友が火事に巻き込まれた時も、里美は常に冷静に、最良の行動を取ることが出来た。決して錯乱することなく、感情を抑える術を持っていた。
恋したことがないわけでもなかった。中学の時にも、高校の時にも、好きだと言ってきた男子生徒は山のようにいた。しかし、彼女は心が高揚することなく彼らと接していた。
不感症なわけではない。冷たい人間なわけでもない。冷静と冷淡は別物である。あくまで里美はおとなしく、理性的な落ち着いた心の持ち主だったのだ。
だから──だからこそ、飯島のためになら激することが出来るのだ。初めて好きになった人だから──初めて自分から好きになった人だから──そして……
「あなたなんかに……」
ゆっくりと、里美の口が開かれた。声そのものは舌足らずで可愛らしいが、その口調には重く迫るものが包含されていた。
「あなたなんかに……あたしの……あたしたちの幸せを破る権利なんか……あるはずないッ!」
その言葉は、決して大声ではなかった。叫び声ではあったが、いわゆる怒鳴り声ではなかった。いくらその口調に鬼気迫るものがあったとはいえ、大の大人を驚かせるような衝撃は、なかったといっていい。
しかし、強烈ななにかが、翼曽を打った。そのショックで、軽く後ずさりする。
(何だ?)
圧力だ、と彼は感じた。しかし、何の「圧力」なのかが判らない。
PK──念動力とか、ESP──超感覚とかいった類の力では、ない。そんな、具体的なものではないのだ。圧力──威圧──畏怖。そう、畏怖だ。こころが脅えているのだ。里美の言葉で、自分は脅えているのだ──その事に気づいた時、翼曽は思考に混乱を来していた。
(翼曽……翼曽通……誰が? 誰が翼曽? 俺が……俺が翼曽? 俺は……誰だ?)
「消えてッ!」
そんな翼曽の耳朶のない耳に、再び里美の声が響いた。
「消えてなくなっちゃえッ!!」
(存在価値……存在理由……自己の消失……俺は……誰だ……俺は……翼曽……? 俺は……消える……?)
翼曽の脳裏に、〈あるべき記憶〉と〈あるべきでない記憶〉が同時に発生していた。いくつものマルチウィンドゥと化した〈あるべき記憶〉と〈あるべきでない記憶〉が何枚も何枚も「画像」として発生し、その画像の上に重なって別の画像が発生する。そしてまたその上に重なって、いくつもの画像が発生していく。無尽蔵に重なっていく様々な記憶が、翼曽の思考を完全に混乱させていた。
(俺)
(俺は……)
(翼曽)
(違う)
(何を言っているのだ、翼曽。お前は翼曽通だ)
(俺は誰)
(やめろ)
(翼曽)(翼曽)(翼曽)
(ああ、なんてことだ。昔を思い出してしまうとは)
(存在理由)
(俺は誰だ……俺は翼曽)
(存在価値)
(価値)(価値)(理由)(理屈)
(俺は俺じゃない)
(翼曽)
(やめろ)
(否定するな。肯定しろ。お前は翼曽通、最強の男)
(リーゾンデートル)
(俺)(俺)(俺)
(ヤ・メ・ロ)
狂人の頭脳をテレパスが覗いたら、こんな画像が読み取れるかもしれない。様々な情報が同時に多数発生し、それが無秩序に浮遊し、増殖している精神空間──とても正視に耐えられる代物ではあるまい。
翼曽の精神は、里美の僅かな言葉のみで崩壊寸前となっていた。
「何っ!?」
〈刃物〉の軌跡が大きく捩じ曲げられた。コントロールが効かなくなる。翼曽の意志とは別の意志によって、〈刃物〉は視界から外れていった。
雪崩山のPKのせいだ。
PKの束がプラズマのように尾を引いて輝き、四方に飛び散る。重力を無視したその光の束は、再びゆるい弧を描いて収束し、翼曽の分身に吸い込まれていく。弾かれているのではなく、翼曽の身体を貫いて、再び戻ってくるのである。
雪崩山の頬が僅かに歪んだ。苦痛のためである。脳が、まるで爪の長い掌によって握り潰されるような感覚を覚える。それだけに、この技は精神を、脳を酷使する。
──麻都の時は、心臓を狙った。今度は、脳、だ。
雪崩山の右掌から迸り出るPKの束は、その掌ががっちりと掴んだ翼曽の頭蓋を貫き、弧を描いて収束し、再び翼曽の頭蓋を貫通する。
その弧は、磁界にも似た軌道を描いていた。
「おれは無駄遣いが大っ嫌いでね……再利用出来るものはなんでも利用するのさ。いくら何でも、ひとりの能力には限界がある。しかし、こういった使い方をマスターすれば、その能力は倍にも三倍にもなる。これがおやじから受け継いだ、雪崩山流のやり方さ」
がっちりと掴んだ翼曽の頭に向かって、雪崩山は吐くように言った。その額には、玉の汗が吹き出ている。僅かずつではあるが、血圧が下がっていくのが判る。限界が近いのだ。
そんな雪崩山の掌の奥に覗く翼曽の表情に、僅かに変化が起こった。それは、雪崩山のPK能力に驚愕しているかのようにも取れる表情であった。
しかし、その口からは意外な言葉が漏れ出した。
「俺は……翼曽じゃ……ない……」
「何だって?」
雪崩山は自らの耳を疑っていた。疲労で、幻聴を起こしたのではないか、とも思っていた。しかし、それが聞き間違いや幻聴などではないことを、後方の藻間や五六たちが証明してくれた。
「今、翼曽が……」
「ああ、自らの存在を否定するようなことを口走りやがった」
凄まじい闘いを展開する二人を取り囲むかのようにして見守っていた藻間と五六が、同時に顔を見合わせてそう言ったのだ。その言葉に、雪崩山もやっと自分の耳に自信を持つことが出来た。
その間も、翼曽の口からは謎の言葉が漏れ出していた。
「俺は……アキサカ……タモツ……翼曽……通じゃ……ない……」
「アキサカ……タモツ?」
雪崩山は、血圧の下がっていくのを感じながらも、翼曽の分身の口走る言葉を反復していた。アキサカタモツとは何者なのか? 翼曽の分身が「翼曽通」ではなく、「アキサカタモツ」だというのか? これは一体──
「やめて……やめろ……俺を……俺の存在を……消すな……テオ……バ……ルド……」
「翼曽! 貴様、一体なにを……!?」
雪崩山は気づいていた。これは、翼曽の分身の言葉ではないのだ。翼曽の本体──翼曽通本人の言葉なのだ。それも、相当に混乱している。分身を操ることなど、とうに不可能になっているのに違いない。
そして次の瞬間、雪崩山はPKの放出を止めていた。PKの磁界が消え去り、瞬間的に空間が冷えた。水蒸気となっていた雨粒が凍って氷の粒を形勢し、闘う二人の肩に降り注いでいた。
「雪崩! 何を……!?」
五六の声は、いつもの冷静さを欠いていた。それほどに、彼らしからぬ大声だったのだ。しかし、その思いは藻間にも麗子にも、名東にも痛いほど判っていた。
「何故とどめを差さない? 何故途中でやめたんだ? 雪崩!」
しかしその声を無視するかのように、雪崩山はゆっくりと手を放す。翼曽の分身は、その場にぐったりと崩折れていった。
「俺は……俺は……」
そして、呟きにも似た言葉を残しながら、再び水蒸気となって飛び立つ雨粒たちと同じように、翼曽の分身はその姿を天空に昇華させていった。
空に昇る翼曽の分身の粒子を見つめながら、雪崩山は呟いていた。
「……アキサカ……タモツ……テオ……バルド……?」
「一体、そのアキサカタモツってのは何なんだろうな」
藻間は合点がいかないといった表情で、雪崩山に近づいていった。顔じゅうに汗をかいた雪崩山は、ようやく判るほどの笑みを浮かべながら、その問いに答えた。
「人名だろうという予測は立つんですけど……あとは、テオバルドっていうのも……」
「人名か……地名か……それとも……」
五六もまた、雪崩山に近づきながら言った。先程よりは、僅かながらに冷静さを取り戻している。
「〈雷羅〉と何か関係がある言葉なのかもしれんな」
「〈雷羅〉と……」
麗子も名東も、ようやく歩くことの出来るようになった瀬川も、雪崩山の周りに集まってきていた。
誰にも答えの出せない疑問に、APメンバーはしばらく沈黙したままで立ち竦んでいた。
翼曽のいた場所には、そんなメンバーを静観するかのように、結界器がひとつ、転がっていた。
「飯島っ!」
不意に後方から声が飛んだ。と同時に、精神の不安定な状態に陥っていた翼曽のマントに真紅の炎が舞った。
「──加藤か!」
そこには、全身に切り傷を負いながらも勇ましく立つ、加藤と小川と割澤の姿があった。
「飯島、そいつはオリジナルか?」
「そうです、小川さん!」
飯島もまた、傷ついた身体を雄々しく立ち上がらせると、大声で小川の問いに答えていた。仲間がこんなに心強いものだったとは──何かが身体の奥に漲ってくるのを、飯島はひしひしと感じていた。
ホールの柱の影から出てきた加藤たち三人は、赤い炎に焦げるマントを翻す翼曽に気を配りながら、ゆっくりと飯島と里美の方へと近づいていった。飯島もまた、里美の手を取ってゆっくりと翼曽の前を離れる。
「よくこの空間に来られたな、加藤」
飯島のこの質問に、加藤は苦笑いに似た表情を作った。
「いや、俺にもよくは判らん。ただ、翼曽から逃げ回っていたら、俺たちの目の前の翼曽がいなくなっちまって、で、みんなを捜そうと思ってぐるぐると歩き回っていただけなんだ。みんな偶然さ」
「ただ、割澤くんが、我々が出会った翼曽が分身であることを見抜いてくれたんでね。それで、ある程度の予測はついたんだ」
小川がゆっくりとした口調で補足する。口には煙草を銜えている。しかし、火はついていない。加藤がそれに気づき、念動発火で火をつける。軽い乾いた摩擦音が、意外なほどにホール全体に響いた。
「いや、偶然だったんですよ。名東とのテレパシー通信で判ったんです。名東たちにはまだ出会えませんか? 翼曽が消える直前に、空間の裂け目からちらっと姿が見えたんですけど……」
割澤が少しばかり興奮した調子で言う。珍しいな、と飯島は思った。飯島にはこの段階では理解出来ようはずもないことであったが、割澤のエキサイトぶりは、名東の怪我の痛みを直接テレパシーとして感じてしまっていたことに起因していた。恐怖と痛み、そして悲しみ──感覚を共有する物だけが味わう、絆に似た現象である。
「翼曽が……」
里美が呟く。その、か細い声に触発され、飯島たちは翼曽の方を見た。
マントの火はいつしか拡がり、肩の辺りまで上がっていた。しかし、翼曽は全くお構いなしの様子である。ふらふらとホールを彷徨っている。精神が崩壊したままなのだ。
不意に割澤が頭を押さえた。
「どうした? 割澤くん」
小川がその急変に気づいた。これも、テレパスに特有の感覚である。テレパシー能力のない飯島や加藤には、この感覚は理解出来ない。
顔色が蒼くなっていた。よほどの精神的なショックを受けた様子である。額には、脂汗も滲み出ている。
「……今、翼曽の心を覗いてみたんです……」
「で?」
加藤が訊く。すぐには答えられないらしく、割澤はゆっくりと頭をあげながら呼吸を整えている。分厚い胸板が前後に脹らみ、縮む。
「精神異常者の頭の中を一度だけ覗いたことがありますが、それによく似ています。以前はこんなことは全くなかったのに……翼曽はもう廃人です。狂人になってしまっています」
小川の眼が、一瞬だけ翼曽の表情を見た。そして、すぐさま外される。小川もまた、翼曽の精神を読んでみたのだ。そして、確認する。決して、割澤の言葉は誇張ではなかった。まさしくあれは狂気の精神──冷静で思慮深い小川ですら、吸っていた煙草を口から落とすほどの、強烈なビジョンであった。
「狂った──狂人ってことは、今までとは違っちまったってことかい? ヤツは今までの、あの冷静で凶悪な超能力者ではなく──」
「もう、超能力の類はおろか、人間としての生活能力もあるまい。あれではな」
加藤の言葉に、靴底で煙草をにじり消しながら小川が答えた。
「……」
飯島は考えていた。闘いは終わったのだろうか? 翼曽は廃人となった。里美の言葉にそれほどの能力があったとは驚きだが、とにかく結果的には功を奏したのである。これで決着がついたことになるのだろうか?
そこまで考えて、飯島はとたんに思いついた。そういえば、翼曽の作り出していた精神空間はどうなったのか。本人の精神が崩壊してしまったのだから、空間も解除されたのだろうか。それとも──?
「割澤、精神空間はどうなっている?」
割澤はずり落ちた眼鏡を直しながら、一番訊かれたくない部分を訊かれた、といった表情になっていた。
「それがですね……」
「何だ? 何かまずいことにでもなっているのか?」
加藤が鋭い質問を浴びせる。これでは、割澤も話さざるを得ない。渋々、口を開く。
「──翼曽の精神が崩壊した瞬間に、精神空間の制御が不能になったみたいなんです」
「何? 制御不能?」
今度は小川が訊いた。その、刺すような視線に困った割澤はとっさに顔を背けた。しかし、視線を外した先には、涙眼になった里美の顔があった。思わずたじろぐ。
「……どうなってるんですか?」
里美の懇願では、断ることも出来ない。割澤はなるべく飯島たちに衝撃を与えないように気を配りながら、順序立てて話を始めた。
「つまりですね……翼曽の能力である精神空間っていうのは……借力能力だったらしいんです」
「シャクリキって?」
「あ、借り物って意味です。持ち技、常に持ってる力ではなく、何かによって授けられた、他人の力らしいんです。で、それを単に制御してただけらしいんですね、翼曽は。だから、分身をたくさん作って空間の狭間に配置するなんて、大掛かりな技も出来たらしいんです」
加藤が首を傾げる。今一つ、理解が及んでいないようである。
「つまり、精神空間ってのは、翼曽が自らのエネルギーで作り出したんじゃなく、別の何かを使って作られた既製品を、ただ操っていただけだっていうんだな」
飯島が確認するように訊く。割澤はひとつ大きく頷くと、飯島を見ながら話を続けた。
「でも、どういった経過かは知りませんが、翼曽本人の精神が崩壊してしまった。で、肝心の精神空間のほうは、精御者がいなくなってしまったんです」
「暴走したりするのか?」
小川が低い声で訊く。振り向き、割澤が答える。
「判りません。ただ、もう空間の方向性が制御出来ませんから、一体何が起こるのかも判りません。拡がるのか、それとも縮むのか、もしかしたらこのまま雲散霧消してしまうかもしれません。以前感じた〈異次元の色彩〉ももう見えませんし、振動数も変調してしま」
「見ろ!!」
割澤の言葉を遮るかのように、加藤の絶叫がホール全体に響いた。耳を押さえながら、飯島がその大声に文句を言おうと口を開いた。
「お前な……」
「あれ、あれ!」
しかし、加藤はそんなことにはお構いなしである。ホールの一点を指差して口をぱくぱくさせている。
何かがあるのか? その一点を眼で追い、飯島も唖然となってしまった。それは小川も割澤も、里美も同じことであった。
「いないッ」
そこにあったのは、燃えカスとなったマントだけであった。翼曽の身体がないのである。
「しまった、テレポートされたのか?」
「そんな馬鹿な、あの精神状態で超能力の使えるわけが……」
飯島の言葉を、すぐさま小川が否定した。確かに、冷静に考えてみても、テレポートの形跡はない。テレポーターである飯島には、テレポートの瞬間の空間の僅かな歪みも感じることが出来るのである。それが、ない。
以前にも一度だけ、空間歪曲の痕跡のないテレポートを見たことがあった。あの、飯島のアパートまで挑戦状を持ってきた少女の消えた時である。あれがテレポートだとすると、相当に高度な能力である。しかし、翼曽のテレポートはもっと荒々しい。あれほど巧妙に跳躍点を誤魔化すことは不可能なはずである。
では、一体どうやってこの空間から姿を消したのか?
「あ……」
飯島はもしや、と思っていた。まだ精神空間は活きているのだ。だとしたら、ヤツは精神空間の狭間に逃げたのではないのか? これなら、テレポートの時のような痕跡は皆無である。翼曽以外に、空間の狭間への入り方を知っている者はいないのだから。
「しかし……自ら行動出来る状態だとは信じがたい」
ぼそっ、と小川が呟いた。
それが飯島の心の中の呟きに対する答えであることは、明白であった。
飯島は少しだけ、不機嫌になっていた。
「まさか、ここまで事態が悪化しているとはね……驚きだわ」
ナグは額に皺を寄せて、翼曽の身体を見下ろしていた。灰色の、何もない空間に浮かぶ翼曽の身体は、かなり衰弱した状態である。予想を遙かに超えた、非常事態と呼んでも差し支えないほどの酷さであった。
「この身体は意外とマッチングが良かったんで重宝してたのになぁ」
短い髪に手を入れ、軽く掻き上げるような仕種をする。大きな眼はきゅっと細められ、憂いとも落胆とも取れる表情を醸し出していた。
「うーん──時期的にも〈次〉を出すわけにはいかないのよねぇ……ここで決着をつけて欲しいしィ」
少しだけ、天を仰いで考える。深海の色彩を帯びた瞳が、綺羅の光を満々と湛えている。
そして、何かに触発されたように、その身体が動き出した。
「せっかくおじいちゃんが授けてくれた精神空間をこのまま無駄に消滅させちゃうのも惜しいもんね」
細い腰にあてがわれていた左手を億劫そうに動かし、地面に置かれていた古書を拾い上げ、その索引を紐解く。その運動につれて、ふわりと拡がったミニのスカートが揺れる。髪から下ろされた右手が軽やかに運動し、茶色く変色したページを乾いた音を立てて繰っていく。
「イグが来てたはずなのに、何でこんなになっちゃったのかしら。あの娘ったら、どこにいったのやら……ま、いいか」
小さな掌が、あるページで止まる。そこに書かれているのは、現代の言葉ではない。古代の象形文字に似た、幾何学模様の羅列である。少女はそれを「読む」。
表記不可能な呪文がナグの口をついて出る。呼吸につれ、茶色の長袖Tシャツに覆われた胸が上下する。そして、思い出したかのように古書を左手のみに任せ、その愛らしい右手が宙に軌跡を描く。
星の形──通常の、頂点が上にある星ではなく、頂点が真下になるような星を描く。
逆五芒星である。
灰色だった空間に、様々な〈異次元の色彩〉が迸り、風が轟と鳴く。ある光はナグを貫き、ある光は翼曽の身体に吸収され、ある光は古書を輝かせる。風はナグの短い髪をたなびかせ、スカートの裾を舞い上げる。
「翼曽って、考えられる最高の破壊力を持つ者のはずなんだけどなぁ……結界器にも対抗出来るような能力を授けることが出来るかしら」
ナグはちょっとだけ不安になっていた。結界器の能力が、予想を遙かに上回っていたからである。翼曽の分身を一撃で粉砕したその珍発明は、彼女たちにとって全く計算外の代物だったのである。
「アンプリファイアだけだって対処が大変だってのに……さて、仕上げ」
ナグはもう一度、空間に逆五芒星を描いた。途端、〈異次元の色彩〉が爆発的に収束し、空間は元の暗澹とした灰色に戻ってしまう。その急激な変化に、少女は眼を細めて光芒の眩しさを避ける。
作業は終了したのである。
ゆっくりと古書を閉じ、ナグは灰色の空間に横たわる翼曽の身体に言った。
「さあ、もういいわよ。もう一回だけ、翼曽通にチャンスを与えるわ。ただし、ひとつひとつの能力については力を上げておいたけど、ちょっとばかり以前より限界値が低くなってるから、無理しないでね。精神はおろか、借り物の肉体まで崩壊しちゃうわよ」
ナグはそう言うと、大きな瞳を閉じた。
少しだけ、考えを整理するつもりでいた。
「──どう考えても、納得いかないなぁ」
翼曽の精神が崩壊したのは、今回が初めてのケースである。
しかも、その直接の原因が、あの山崎里美の言葉──たったあれだけの言葉なのだ。
ナグはあの里美の一連の行動を、前回の飯島のアパートの前でのやりとり同様、空間の狭間からじっくりと観察していたのだ。もちろんその時には、こういった結末が待っていようとは、想像すらしていなかった。
あの言葉に、精神を狂わすような超能力があるのか? それとも、翼曽の精神を混乱させるキーワードでも含まれていたのか?
「あの人──油断ならないわ」
口の中でぼそっ、と呟く。とてもそんなに凄い能力の持ち主とは思えないのに……自分の読みが浅いのか?
ナグはそんな自分の考えを否定するかのように、軽く頭を振った。そうとは思えない。いくら山崎里美がアンプリファイア能力を持つ超能力者でも、翼曽の精神を崩壊させるような特殊な能力の持ち主とは、とても思えなかった。
人の精神を崩壊させるためには、最低でもテレパシー能力が必要である。PKによる物理的な脳細胞の破壊ではない、心理的、超心理的な精神の破壊を成しえるのは、唯一テレパシー能力のみである。
では、近くにいた人間の能力を増幅したのか? そうではあるまい。翼曽の精神が崩壊した時、彼女の能力の効力範囲にいたのは、やはり飯島洋一ただ一人なのだ。彼にはそんな力は絶対に、ない。
しかし、あの山崎里美と飯島洋一の未知の力に、精神を崩壊させる力がないとは言い切れない。それ以外に、翼曽ほどの男に精神に異常を来たせられるような特殊な能力を持つ者など──
ナグは思考を停止していた。あまりに意外な考えが、脳裏を過ったからである。
「まさか……」
次の瞬間、少女は短い髪をふわりとなびかせながら跳躍していた。
確かめる必要がある──ナグの心はその言葉で一杯になっていた。
「あれ、君は……」
藻間のこの声に、皆が振り返った。雪崩山たちの視界の中の藻間は、自分の着ていたダークアースのスプリングコートをひとりの少女の細い肩に掛けていた。コートの裾が、濡れたアスファルトに擦れて湿り気を帯びる。
「何故ここに?」
藻間は意外な心境を隠せないでいた。自分の目の前に、ここにいるはずのない少女がいるのである。あの、横浜の埠頭で会話を交わした、小さな可愛いお姫様が。
しかし、少女は答えない。黙って俯くばかりであった。濡れた髪が額に張りつき、心持ち不安そうな表情を一層強調していた。
「藻間、知り合いか?」
五六が小声で訊ねる。あまりにも意外な光景だと感じたのは、藻間本人ばかりではなかった。他のメンバーもまた、この光景を意外なものとして捉えていた。大男の藻間と小柄な少女──少女の身長は、恐らく一五〇センチほどしかない。「大人と子供」とは、こういった時に使う表現なのだろうと雪崩山は思った。そう思った時、彼の眼前を、閃きに似た何かが過った。
「藻間さん、まさかその子があの、横浜の──」
ここまで言って、あっと口を押さえる。しかし、遅い。五六もほとんど同時に思い出したらしく、大きく口を開けて驚愕している。瀬川と名東だけが、事の次第を理解しえずにきょろきょろと両者を見ていた。
「もう……帰れないわ」
少女が素早く振り向く。瞬間、藻間のコートが少女の身体から落ちた。雨を吸って重くなった髪がぱっと展開し、周囲に少女特有の煌めきを彩る。その大きな眼には、大粒の涙が湛えられていた。濃緑色の瞳が潤んでいる。
──間違いない。イグ、だ。藻間は、脳がオーバーヒートするのではないかと心配になっていた。それほどに、頭に血が昇っているのが自分でも判る。
「お願い、藻間さん……連れて逃げて」
もう、泣いてもいいんだ──泣きつける胸が目の前にあるんだ──そう思うと、もう涙を押し止めることは出来ない。イグは溢れる涙を拭おうともせず、藻間の身体に顔を埋めた。沸き上がる感情を押さえる術を、小さな彼女は知らなすぎた。
「イグ……」
そっ、と少女の頭を押さえる。周りが見えないって表現があるが、こんな時をそう言うんだな──藻間は早鐘のように鼓動する心臓の動きを体感しながら、漠然とそんな風に考えていた。
「ほう……イグ、お前が裏切っていたとはな」
メンバーの背後から、刺すような声が放たれた。全員が背中に電流を感じ、思わず飛びずさっていた。邪悪な気!それも、相当に強力な──この気の感触は、まさか……
「いよいよクライマックスだな、雪崩山くん」
そこに立ちふさがっていたのは、漆黒の魔神、邪悪の巨人──翼曽通!
「貴様──左手の指がない……オリジナルかッ!? いつの間に、どうやって──」
しかし、そんな雪崩山たちの驚愕などはお構いなしに、翼曽は言葉を続けた。
「恋は盲目、とはよく言ったものだ。イグ、お前が後ろから手を引いていたとはな……迂闊だったよ。老テオバルド様の側近が、こんなことになっているとはな」
翼曽は腕を組み、さも驚いたといった風な表情で言った。よく見ると、翼曽は立ってはいない。宙に浮いているのだ。そのため、ただでさえ大きな翼曽が、さらに高空から藻間たちを睨みつけている感じになる。
イグが、その細い身体をぎゅっと藻間に押しつける。彼女は本気で脅えていた。その細い肩が、小刻みに振動していた。ベルトによって締められた腰が、以前にも増して細く感じらる。
「イグ、お前には判っていたはずだ。お前がイグとして老テオバルド様にお仕えした時から、お前はもう個としての人格を捨てていたはずなのだ」
イグは藻間の腕の間からそっと顔を出すと、ちらっと翼曽の顔を見た。しかし、何も言わない。逆に藻間が力んだ口調で言う。
「翼曽、貴様──何様のつもりだ! この娘が何をしたってんだ? それとも、お前、この娘の親か何かか? え、何とか言ってみろよ!」
半ば逆上した藻間の質問には一貫性がなかったが、それは翼曽にとってはどうでもいいことだった。何故なら、翼曽は持つの質問に応えるつもりなぞ最初からなかったのだから。
「イグ……俺に〈精神分離の願〉をかけたな。亜邪神に関する窮極奥義の取り扱いはナグにしか出来ないと思っていたが、お前にも出来たわけだ──当然か、双子だものな。イグとナグは」
あくまで翼曽はイグに向かって喋っていた。イグが聞いていようといまいと、翼曽は言わずにはいられなかったのだ。身内の裏切りなぞ、〈雷羅〉始まって以来の不祥事なのだ。
そんな会話の間じゅう、雪崩山は冷静に考えていた。イグ──藻間の抱いている少女は、どうやら〈雷羅〉の人間らしい。ということは、超能力者である可能性は大きい。それに、今の話から類推すれば、翼曽の精神があれほど簡単に崩壊したのは、イグが奥義の禁を破って〈精神分離の願〉をかけたからだという──では、〈精神分離の願〉とは何なのか? そもそも、奥義とは? 翼曽の精神はその奥義を駆使すれば崩壊させられるものなのか?
「この娘は渡せないな」
そこまで考え、雪崩山は言った。もし本当にこのイグなる娘が翼曽の精神を崩壊させたなら、それが彼女の能力であるなら、もう一度同じ方法で翼曽を倒すことが出来るだろうし、その奥義なるもののノウハウも知ることが出来よう。それに、彼女は組織を裏切って藻間のところに来たのである。〈雷羅〉の情報も手に入れることが出来るかもしれない。
「どうやって精神の崩壊から逃れたかは知らないが、もう一度お前をその世界へ誘うことの出来る娘だ。コマとしては最強──角や飛車にも劣らない。ここで決着をつけさせて貰うぜ、翼曽!」
「それはどうかな? 雪崩山くん。君はそんなに素直に、敵の女を信じることが出来るのか?」
雪崩山の物言いにも動ぜず、翼曽はせせら笑った。憎々しい口振りである。嘲笑いが聞こえてきそうな、そんな陰湿なトーンの言葉が、雪崩山を一瞬だけ躊躇させた。
確かにそうだ──この少女は〈雷羅〉の人間なのだ。敵の人間なのだ。藻間と恋愛関係にあるからといって、それだけで全面的に信頼することが出来るのか? 今の段階では、今の状況から判断するなら、彼女を信じることも出来よう。しかし、これがワナだとしたら? 翼曽より上の存在──恐らく〈老テオバルド〉なる人物──による、巧妙なワナだとしたら?
「保証します」
そんな思いを巡らす雪崩山の背後から、別の声が凛々しい響きを伴って答えた。名東である。
「彼女の心は澄んでいます──邪悪な曇りは一点もありません。全て、藻間さんへの想いで構成されています。〈雷羅〉への忠誠よりも、ずっと強い想いです」
その言葉に、イグがはっとする。そして、瞬時にして心の扉に掛金を下ろした。名東は済まなさそうな表情でちらとイグを見、それから再び翼曽に向かって視線を戻した。
「翼曽──あんたたち〈雷羅〉の人間も、人の血の通った人間であることに変わりはないようだな。彼女には、善悪の判断や恋愛の感情だって、ちゃんと存在している。いや、むしろ狂人じみているのはあんたや麻都たちだけなんじゃないのか?」
ふふん、と鼻で笑う。翼曽の、名東の言葉に対する回答である。
「面白いことを言うな、名東くん……イグの深層心理を一瞬にして読んだようだ。だがな、それは多少解釈に間違いがある。私も麻都も、そこにいるイグですらも、老テオバ ルド様にお仕えすることを前提に造られた亜邪神だということが──」
「アサシン?」
「お喋りが過ぎるわよ、翼曽」
五六が聞き返そうとした矢先、翼曽の上空から声が聞こえてくる。その翼曽を叱責する声の主は、いつの間にか翼曽の左肩にちょこんと座っていた。
緑色のミニスカートの裾がふわっと舞い上がり、白い太股が露になる。吸い込まれそうな、そんな白さである。その白い足が、まるでそれが当然であるかのように、嫋やかに組まれる。スカートの裾を押さえていた右手がゆっくりと上がり、短い髪に差し込まれる。輝く髪がぱっと開き、さっ、と少女の芳香が発散される。
「貴方、そんなにお喋りだったかしら? それとも、調整の失敗かしら」
「ナグ!」
イグが叫ぶ。その眼は、驚愕と恐怖に脅えていた。
「お久し振りね、お姉さま。ちょっと見ないと思ったら、こんなことになっているなんてね……意外だったわ」
翼曽の肩の上にいる少女──ナグの大きな眼がきゅっと細められる。可愛らしい仕種ではあるが、雪崩山はその眼に何か、翼曽や麻都に通ずるものを見ていた。
「あんただな、俺や飯島にメモを届けたのは」
雪崩山がついでのように訊く。記憶の確認のための質問だった。それは、事態の複雑さを整理するために、自分に向けて発した質問でもあった。
「そう。貴方には直接手渡ししたわよね。あ、名乗るのは初めてかしら? ナグっていうわ。そこにいるイグの、双子の妹ってわけ。もっとも、もう姉だの妹だのって言ってられなくなったみたいだけど」
小さな口許が嘲笑の形を作り、ナグの眼が再びきゅっと細くなる。濃緑色の瞳が妖しく輝いていた。
「お察しの通り、あたしたちは〈雷羅〉の人間よ。──大分、手の内を明かしてしまったわね。翼曽、もう後戻りは出来ないわよ。ここで決着をつけて」
ナグは足を戻すと、翼曽に向かって言い放った。エメラルドグリーンの靴が、足の動きに連れて光の軌跡を描く。
「イグの抹殺と山崎里美の奪取──至上命令よ。この二つの指令の達成なき時は、〈雷羅〉に戻ることを禁じます」
「解った。任せておいてくれ」
ナグはそんな翼曽の軽口に半ば呆れたような表情で、天を仰いだ。その仕種が何かのスイッチだったかのように、ナグの身体が半透明になっていく。
次元の裂け目へ移動しているのだ。
「とにかく、結界器だけは注意してよ。取り敢えず、イグの能力は封印しておいたから」
その言葉が雪崩山たちの耳に届いたころには既に、ナグの身体は全員の視界から消失していた。
はっとして、イグは自らの右掌を見た。その小さな可愛らしい掌にはいつの間にか、焼印にも似た赤黒い逆五芒星が刻み込まれていた。
「邪封印──!」
「ほお、さすがはナグだ。いつの間にイグの掌に邪封印を施したのか、全く気づかなかったな」
驚愕するイグに、翼曽はさも感心したかのような言葉を発した。まるで、怖いものなしのガキ大将のような、そんなニュアンスを含んだ口調だった。
「さあ雪崩山くん、決着をつけよう。まず君を倒しておかないと、どうも安心が出来ない。飯島くんの〈神格〉も怖いが、あれほど不安定な技ならば精神空間の力場で対処することが出来る。しかし、君の場合は違う。さすがに訓練を受けてきただけはあって、筋金入りだからな」
翼曽はにやにやと笑いながら、雪崩山に言う。馬鹿にしているのだ。何度崩壊しても復活し、闘いを挑む粘液質の暗黒魔神──まさしく〈悪魔〉だ。雪崩山は、ふつふつと湧き出る怒りを禁じえないでいた。
雪崩山の取った次の行動は、翼曽に組みつくことではなく、両手を大きく左右に振ることであった。それは、威嚇とか誇張とかいった、そういった擬態的なものではない。あるサインであった。
そのサインが何であるかを瞬間的に理解し、APメンバーたちは一斉に掛け出した。五六が、藻間が、麗子が、名東が、瀬川が、そして藻間に腕を引かれたイグが──。
『結界器作戦』の発動である。
いったん引いた潮が、再び怒濤となって押し寄せてきていた。
もう、後には戻れない。