境界


 山崎里美は悩んでいた。これ以上はないほどに悩んでいた。
 以前から感じていた疑問が日に日に膨れ上がり、授業に出ているとは言え何も頭の中に入ってこない日々が続いていた。
 世間は何の悩みも無さそうにもうすぐ夏休みと言うこの素晴らしい状況を謳歌しているというのに、彼女の周りだけは異様に静かな空気が流れている感じさえ受ける。里美とて、本当はこの楽しい季節を満喫したい。でも、どうしてもこの悩みだけは早急に解決しないと、どうしようもないのだ。もうすぐ大学生になって初めての夏休み。休み前には、どうにかしたいと思ってるのに──。
 二限が終了した後でも、机の前でうんうん唸っている彼女を、高校時代からの友人である小宮優子は不振げな目で見つめた。
「里美、何ぼーっとしてるのよ。もう講義終わったわよ」
「え、あ、ありがと」
 ぼーっとしたまま里美はお礼を言って、立ち上がる。その彼女に優子は更に追い討ちをかけてみた。
「まったくもう、青春まっただ中の里美が何を悩んでるってわけ? 勿体ないぞ。こんな珍しく天気のいい日に」
「え、ちょっとね……」
 青春まっただ中という言葉が妙にくすぐったく響くのを感じつつ、でもそれが悩みの原因なの、とは里美には言えなかった。
「で、どうなのよ実際」
「どうなのって……?」
 こくりと首を傾げた里美に「全くこの子は鈍いんだから」と言わんばかりな視線を向けて、優子ははっきりと言った。
「やだなぁもうこの子は。彼氏のことよ。か・れ・し!」
「あ、もう、やだなぁ」
 彼──飯島のことを聞かれると途端に顔を赤らめてしまう里美のことを、優子は知りつつあえて問い掛けたのだ。その問い掛けは、羨望と多少のやっかみが含まれていたのだが、里美は気付いていない。優子の質問に真面目に答えた。
「どうって言っても、普通にお付き合いしてるだけよ。遊んだり、ご飯食べたり」
 手でぱたぱたと熱くなった頬を冷ますかのように扇ぎながら話す彼女は、本当に可愛い。以前は言い寄る男にほとんど興味を持たなかった彼女が、今はこんなにも人を愛することに一所懸命という事実は優子には信じがたかったりする。でも、それは幸せなことかもしれない、と彼女は勝手に自分の中の意見を締めくくった。
「ほら、このままじゃお昼食べられないよ。早く行こう」
「あ、うん。ごめんね。学食,まだ席あるかなぁ」
 手を引かれて里美は学食へと向かった。
 
 
 結局学食は人がいっぱいで入る事ができなかったので、仕方なく里美と優子は近くの店でサンドイッチを買い、芝生の上で昼食を済ませていた。五月晴れと言う割には少しきついが、暖かな日ざしがいっぱいに広がるこの場所には、他にもたくさんの学生が休息を取っていた。
 サンドイッチを食べ終わり、手持ち無沙汰になった里美がふと右の方に目を遣ると、見覚えのある顔が、一人芝生で読書をしているのが見て取れた。
「あ、優子。あたしちょっと用事があるんだけど。先戻っててくれる?」
「どうしたの? 彼氏でも見つけた?」
 里美はまたからかわれているのも気付かずに、再び顔を赤らめつつも素早く首を横に振って否定した。
「ううん、知ってる先輩。この間ちょっとお世話になったからお礼を言っておこうと思って」
「なぁんだ。それなら早く行っておいでよ。私は先に行ってるから」
「ごめんね。ありがとう」
 里美は優子に手を合わせて謝ると、読書に夢中のその人の所に歩いていった。長い髪をかきあげながらその人が読んでいるのが経済の書物だと伺える。メガネが光に反射してキラキラと輝きを放っていた。
「麗子さん」
 本を読んでいる彼女に対して声をかけるのはためらわれたが、この間のことでお礼が言えてなかったのも事実であったし、何しろどうしても彼女に聞きたいことがあったので、里美は思いきって声をかけた。
 麗子はふと聞き覚えのある声が頭上から降ってきたので、驚いて声の方を見ると、ニコニコと笑いながら里美が立っていた。ぱたんと本を閉じて彼女の方に向き直る。
「あら、里美ちゃん。元気だった? なんかあの時以来会うの初めてのような気がするんだけど」
「ええ、何度か構内ですれ違ってはいたんですけど、忙しそうだったので声はかけなかったんです。良かった、会えて」
 里美はそう言いながら、すとんと麗子の横に腰を下ろし、改めて彼女の方に向き直った。そしてぺこりと頭を下げた。
「麗子さん、あの時は本当にありがとうございました。お礼を言わなくちゃ言わなくちゃって、ずっと思ってたんです。麗子さんがいなかったら、今あたしはここにいなかったかもしれない」
 何度も何度も頭を下げ、お礼を言う里美に驚いた麗子は、慌てて彼女を止めにかかった。
「何言ってるの。あたしこそあなたと飯島くんがいたからこそ、今ここでこうしていられるのよ。お礼を言わなくちゃいけないのはあたしの方だわ」
「そんなことないですよ」
「ううん。あなたたちがいたからこそだってば」
 などと、ひとしきり二人は謙遜しあっていた。そのうち麗子がふっと遠くを見る目つきになり、ぽつりと呟いた。
「あたしは、本当に里美ちゃんと飯島くんに感謝してるのよ。人を想いあうことが、どれだけ素晴らしいかってことを改めて教えてもらったもの。すごいわよね。あなたたちのお互いを想いあう力は。なんか、うらやましいわ……」
 その言葉に里美は微妙な違和感を覚えた。彼女にしてみれば、麗子と雪崩山の関係の方がうらやましく思えているのだ。と、そこで彼女は麗子を探していたもう一つの理由を思い出した。彼女なら自分の抱え込んでいる疑問に答えを出してくれるかもしれない、そう思っていたから、彼女を探していた事を。
「……あの、麗子さん、聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
 突然の話題変換に目を丸くした麗子だったが、里美を見て居住まいを正した。何故なら里美はきっちりと芝生の上に正座をし、真剣な眼差しでこちらを見つめていたからだ。里美は言葉を選ぶかのように、ぽつりぽつりと話し出した。
「ずっと、悩んでる事があって……。飯島さんとお付き合いしてて、すごく、すごく飯島さんの事が好きだなぁって思えるんです。でも、好きになればなるほど、一つの悩みが浮上してきてしまって。どうしたらいいのか……」
 そこまで言って、里美は麗子の瞳を見つめ、一気に胸の内を吐き出した。
「飯島さんの事、名前で呼びたいのに呼べないんです。あたし、どうしたらいいんでしょうか?」
 ……一瞬、静寂の時が二人を支配した。直後、麗子が吹き出したものだから、里美は顔から火が出るではないかと思う程に赤くなり、俯いてしまった。あたしはなんて質問をしてしまったんだろう……。後悔だけが頭をぐるぐると回ってしまう。
 そんな里美を見て慌てたらしい麗子が、頭上から声を投げかけてきた。
「ごめんごめん。思わず笑っちゃったのは、面白いとかじゃないのよ。里美ちゃんがすごく可愛らしかったからなの。それって付き合いはじめのカップルの悩みよねぇ」
 麗子のことばに里美は顔を上げた。麗子の言葉の通り、彼女は微笑ましいような、羨ましいような、そんな瞳で里美を見つめていた。
「……麗子さんは、いつから雪崩山さんの事を名前で呼ぶようになったんですか?」
 恐る恐る里美が訊ねると、麗子はちょっと瞳を丸くした後、ふっと視線を里美からそらした。何か遠くを見つめるように──。
「う〜ん、確か、あたし勇次クンの事は付き合う前から名前で呼んでたのよねぇ。あたしと彼の間には、本当に色々な事があったから……」
 そう言って麗子が話し出したのは、彼女と雪崩山の出会いから、立て続けに起きた様々な出来事の話だった。二人が通っていた高校での壮絶な戦いの話──。
 出会った時に視線があった事。不良から助けてもらった事。その時にお互いが超能力者だと知った事。学園に巣食う龍の話。その戦いの中で、お互いの事を想うようになっていった事……。
「勇次クンとはね、恋人と言うより、戦友と言った方がいいのかもしれない。一緒に色々な事を経験してきて、お互い成長したような気がするのよ」
 過去の話を終えた麗子は、そう最後に付け加えて、言葉を切った。
「……恋人、じゃないんですか?」
 里美が疑問を口に乗せると、ううん、と麗子はかぶりを振った。一言一言、想いを込めるが如く言葉を紡ぎ出していく。
「恋人でもあり、戦友でもある、って言った方が良かったかな。あたしは間違いなく、勇次クンの事が好きよ。勇次クンもそう。お互いがお互いを信頼してるから。勇次クンが相手だからこそ、そうなれたんだと思うのよ。勇次クンがいなかったら、あたしは今のあたしでいられないから。勇次クンがいなくなっちゃったら、あたしはきっと、高校生になったばかりの頃のあたしに戻っちゃいそうな、そんな気がするの」
 すごいなぁ、と里美は思った。他のカップルがただ年月を重ねてきただけの心の繋がりより、遥かに固い絆を感じた。あたしと飯島さんにはそうなれるかしら……。
「羨ましいなぁ。麗子さんたち。なんだかすごく、羨ましい」
 他の言葉もあるだろうに、里美の口からはありきたりな言葉しか出てこない。自分の語彙の貧困さが恨めしい。
「飯島くんの事を名前で呼ぶって言うのは、あたしはどっちでもいいと思うけどなぁ」
 少しずれていた話題を麗子は軌道修正した。
「べつにね、名前で呼ぼうと名字で呼ぼうと、お互いの自由だと思うの。どれだけ好きかを呼ぶ声にのせる事ができるならね。それだけの想いがお互いにあれば、飯島さんでも洋一さんでもようちゃんでもどんな呼び方でも構わないと思うの」
 あたしは毎回呼ぶ時に愛を込めてるわよ、と、麗子は冗談めかして言葉を切った。
 里美は麗子の言葉が整理できずにいた。しばらく考えてようやく一つの結論に至る。それって飯島さんをどう言う風に呼んでも構わないって言ってるの……?
 麗子に問いただそうとした時、講義開始を告げる音が鳴り響いた。ハッとして立ち上がる。麗子も三限目があるらしくやはり立ち上がって身体についた芝をはたいていた。
「ごめんね。質問の答え、出せなかったわね」
 すまなそうに謝る麗子に、里美はぶんぶんと首を振って答えた。もともと自分が無茶な質問をしたんだし、答えが出なかったのは当然と言うべきなのかもしれない。でも、麗子の答えはますます里美を混乱させる結果になってしまったのは事実だった。
 本当にごめんね、といいながら校舎に戻る麗子を目で追いながら、里美はもう一度ぺたんと緑の中に座り込み、ぼーっと空を見上げた。
 混乱した頭を整頓しなければ、とてもじゃないけど人前には出られそうにない。
 待ってくれてる優子には悪いけど、三限目はこのままさぼっちゃおう、そう思いながら。



 3限の間中ぼーっと芝生の上で過ごし、終わった時点で今日の講義を全て消化してしまった里美は、誰かがいるもかもしれないと思って学生ホールに足を向けた。このまま帰ってしまうには頭が混乱し過ぎていた。
 案の上、覗き込んだ学生ホールの隅のテーブルには雪崩山が一人でタバコをふかしていた。自分の方に向かってくる人影をサングラス越しに認めたらしい彼は、軽く手を挙げて里美に挨拶した。
「よお。何してるんだい山崎さん。飯島でも待ってるのか?」
「今日は飯島さんは部誌の編集作業が忙しいからって、自主休講なんですよ」
 軽く首を振りながら問いを否定して、雪崩山の向かいに腰掛ける。両肘をついて顔を組んだ手の上に乗せ、じっと里美は雪崩山の顔を見つめた。先ほどの麗子の話を思い出したからだ。
 麗子さんはあんな風に言ってるけれど、雪崩山さんはどう思っているのかしら。本来の目的とは外れちゃうけどちょっと聞いてみるのもいいかもしれない、そう思って里美は口を開いた。
「雪崩山さんは、いつ頃から麗子さんの事を名前で呼んでいるんですか?」
 途端、雪崩山の手からポロリとたばこが落ちた。
「ぅわっちっ」
 左手にまともにあびた火の粉を振り払い、落ちたタバコをもみ消しながら、雪崩山はまじまじと里美を見遣る。突拍子もない質問に驚きを隠せない様子だった。里美からしてみればさっきまで麗子とその話をしていたので全く違和感はなかったのだが。
 里美の表情が真剣な事に気付いた雪崩山は、居住まいを正し、サングラスを取ってじっと里美を見つめた。その瞳の中に冗談やからかいの色が全くない事を見て取ると、ぽつり、と呟いた。
「確か、麗子に会ってすぐだったと思うよ」
「どうして、名前で呼ぶようになったんです? さっき麗子さんから聞きましたけど、名前で呼ぶ前はずっと、『おまえ』って呼んでたんですよね?」
 里美は、雪崩山に麗子との会話の内容をかいつまんで説明した。どうしてそんな話になったかも、飯島には絶対に内緒と言う事で話して聞かせた。正直に聞けばきっと、雪崩山さんはちゃんと答えを導きだしてくれるかもしれないんじゃないか、と考えて。
「山崎さんだから、正直に答えるよ。俺と麗子の出会いはさっき彼女から聞いた通りだ。結構な距離の中であいつの瞳が俺を「視た」時、『俺はあいつに惚れる』そう思ったね。直感だよ、直感。で、その後なんの因果か闘いに巻き込まれて彼女と行動を共にしていくうちに。想いは確信に変わっていった。それを俺自身がはっきり認めた瞬間から、名前で呼ぶようになったんだ。言うなれば想いの現れなのかなぁ」
 そこで雪崩山は一旦言葉を切るようにポケットからたばこを取り出し火をつけ、紫煙を思いきり吸い込んだ。
 想いの現れかぁ。なんかいつもクールな雪崩山さんからそんな言葉を聞くとちょっと驚いちゃうな、などと少し不謹慎な事を考えながら、里美は次の雪崩山の言葉を待つ。
「俺にとって麗子の存在はとても大きいものなんだ。あいつが傍にいないときっと生きていけないんじゃないかって錯覚しちまうくらい。でもな、俺にはやらなきゃいけない事もあるからなぁ。いつまでも麗子に甘えてちゃいけないんじゃないかって思うよ」
「雪崩山さんみたいな人でも甘えてたりとかするんですか? ……なんだかびっくりです」
 里美は雪崩山の言葉に軽い驚きを覚えていた。男の人が甘えると言う姿はあまり想像できない。自分は飯島さんに甘えてはいるけれど、飯島さんはいつも大人びてて、しっかりしてて、甘えてくるなんて素振りは微塵も感じさせなくて。
 目を軽く見開いている里美に、雪崩山はにやりと笑って言い放った。
「山崎さん、男は実は甘えたがりなんだ。知らないだろ。恋だの愛だのっていうのは実は男の方が求めているものなんだと、俺は思うぜ」
 軽く見開いたままの目が、何かを求めて幾度もまばたきを繰り返した。思わず止まってしまった呼吸を補うかのような勢いで。膝の上においておいた手の平が、きゅっとスカートの布地を握りしめた。すぅっと深呼吸を、ひとつ。タバコを吸い終わった雪崩山が灰皿に吸い殻を押し付けているのを、目に写しながら素早く考えを巡らせる。
 里美の頭の中に、男の人が甘えるとか、男の人の方が恋愛を求めていると言う考えはついぞ浮かばなかった。だって、周りの人間を見ているといつも騒いでいるのは女の人の方。昨日男の人とデートした、ついにホテルに行っちゃった、最近彼がワガママ聞いてくれない……などなど。学科が殆ど女性で占められているためなのかもしれなかったが、耳に入っていたのはそう言った類いのものだったのだ。
 APに入って様々な男の人と関わるようになったけれど、入ってすぐにあの事件があってそんな事を聞く余裕もなく、その後も部会で皆と顔を合わせても、恋愛の話になることはなかった。部長でもある雪崩山に自分から話しかける事はあまりなかったが、飯島と色々な意見を交わしている彼からは今の言葉を紡ぐ彼は全く想像できなかった。
「本当に、麗子さんのこと好きなんですね、雪崩山さんって」
 出てきたのは麗子の時と同じ、ありきたりな言葉でしかなかった。けれども、これは里美の心からの声であった。
 里美の言葉に、雪崩山は苦笑する。
「いや、俺は山崎さんが飯島の事を想う力の方が強いと思っているんだけどな」
 それは雪崩山が照れ隠しに言った言葉だったのだが、里美はそれに律儀に反応する。真っ赤になって俯いてしまった里美を見て、雪崩山は素直に可愛らしいな、と思う。
「そういや、俺はまだ山崎さんの疑問に答えてないんだっけ。答えようか?」
 恥ずかしくて顔が上げられなくて、こくん、と里美はうなずくだけの返事をした。
「呼び方なんか実際の所関係ないと思うぜ。山崎さんがあいつの事を名前で呼びたいと思ったら呼べばいいんじゃないかな。俺みたいにそう言う時がきっと来ると思うんだ」
 雪崩山のセリフがからかっていると言うわけでなく、とても優しいものに聞こえて、ようやく里美は顔を上げる事ができた。言葉と同じ優しい瞳が、里美を見つめていた。
「雪崩山さんのお話で、何となく分かった気がします。それにとっても素敵な話も聞く事ができました。ありがとうございました。今日はお先に失礼しますね」
 にっこり微笑んでぺこりと頭を下げ、里美は席を立った。そろそろ帰って夕飯の買い物に行かないと……。もう一度頭を下げ足早に去っていこうとする里美の背中に「山崎さん」と雪崩山が声をかけて来た。くるり、とスカートの裾を翻してもう一度雪崩山の方に向き直った里美に、雪崩山はまじめな口調で話しかけた。
「飯島の事、頼むな。あいつはしっかりしてるけど、やっぱり誰かが支えてやらないといけないと思うんだ」
 その言葉に、里美は誰がみても見惚れるような極上の笑顔で返事をし、その場を去っていった。
 残された雪崩山は、またタバコに火をつけた。紫煙を肺一杯に吸い込み、吐き出しながらぽつりと呟いた。
「飯島は本当にいい娘をつかまえたんだなぁ」
 その言葉は煙とともにふわふわと浮き上がっていった。

 

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