「ねえ義成、わたしたち幸せでしたわよね。あの時から、きっと」
突然の質問に義成は驚いた様子だったが、すぐに微笑んで言った。
「そうでしょうね。わたしたちは人より短い生でしょうけれど、他人より多くの幸せを受けたような気がします。特に……」
わたしの手を握り、義成は更に言葉を重ねた。
「若桜、あなたに出逢ってからが、今までの人生の中で一番幸せでした。どんな時でもあなたの事を思う度、心の中が暖まっていきました。あなたがいてくれたからです。ありがとう」
「そんな……。お礼を言いたいのはわたしの方ですわ。義成がいたからこそ、わたしはわたしでいられたのですもの。いつも心には、あなたの事しかなかったのですもの。あなたがいなかったら、わたしは一生何も知らないで不幸な人生を送っていたと思いますわ」
わたしは彼に出逢ってからいつも感じていた。人を愛することを知らずに一生を終わらせてしまうのは不幸だと。
「義成、わたしたち生まれ変わってもきっと巡り合えますわよね。今度出逢う時は、お互いもっと幸せならいいですわね」
「若桜……!」
不意に義成が、わたしをきつく、抱き締めた。
「義成……、ありがとう。わたしを幸せにして下さったこと、感謝してますわ」
わたしも彼の背中に手を回し、耳元で囁いた。
彼はしばらくわたしを抱き締めていた。
どれくらいの時が経っただろうか。ふと肩に冷たいものを感じた。慌てて義成の方を見た途端、とても驚いた。
義成が、泣いていた。
頬をつたっている涙を拭おうともせずに、泣いている。
──何故泣いているのか分からずに困惑したけれど、ふいに思い直し、いつも彼がわたしにやってくれていたように、そっと抱き締めた。まるで触れたら壊れてしまうような物を抱くように。
彼はそれに気付いて顔を上げ、こちらを見て笑った。けれどもそれはとても儚げで、本当に壊れてしまいそうな印象を受けた。
「許して下さい、若桜。わたしは、本当はあなたを巻き込むつもりはありませんでした。けれども……あなたが傍にいなければ、何も出来なかったのです。現に、あなたと出逢う前の方が、父帝を殺める機会はあった筈なのです。それなのにわたしは、わざわざあなたを危険に晒してしまって、その上、こうしてあなたまでもが死ななくてはならないのかと思うと、自分のいたらなさがどうしようもなく思えてしまって……」
彼が、わたしの事で泣いていたとは──!
わたしはいたたまれなくなり、慌てて首を振った。
「そんなこと言わないで下さい。わたしは自分が危険な目に遭ったとは思っていません。それに、帝を殺めたい、そうわたし自身が思ったのも事実です。それに、わたしもあなたの傍にいたかったのですもの。ですからそんなことは言わないで下さい……」
彼の袖にしがみつき、泣き叫んだ。義成が驚いた様子でこちらに目を向けたけれども、わたしはただただ、泣いていた。
耐えられなかった。彼が弱気になっているのが。
──大丈夫──そう言ってあげたいのだけれど言う事ができない。何故ならわたしも弱気になっていないとは言い切れないから。
だから、わたしは耐えられなかった。自分の心を義成が表しているようだったから。
──強くなりたい。
これが逃れる事のできない事だと分かっているのなら、それを素直に受け入れられる強さが欲しい。
……わたしは泣き続けた。まるで心の中の弱さを涙で洗い流すかのように。
泣いて泣いて泣き続けて、ふと気付いた時には空は白み始めていた。
いつの間にか抱き締めてくれていた彼の腕からそっと抜け、向き合った。
義成は、もう泣いてはいなかった。疲れ切ってしまったような目も、していなかった。ただ、何かを決意したような顔をしていた。
その顔を見た時、自分の中の弱さが洗われていくのを感じて、嬉しくなった。
彼に向かって笑いかけると、義成も笑い返してくれた。
その笑顔を見た時、もっと嬉しくなった。今までの中で最高の笑顔だったから──。
──その後、二人して微睡み、目がさめた時には午の刻だった。「人目につかない方がいい」ということで、申の刻までその邸で過ごした。
外が暗くなってきたのを見て、義成を促した。
「義成、そろそろ行きましょう。あなたとわたしの出逢った場所、近江の湖に」
「そうですね」
二人でまた馬に乗り、湖のほとりへと向かった。ようやく湖に着いた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。
恐怖に駆られている鼓動を無視して、わたしはこう、義成に言った。
「ねえ、わたしたちが最初に出逢った、あの桜の木の所に行ってみませんこと?」
あの桜は、わたしにとって大切な宝物。彼とわたしを出逢わせてくれた、大切な所なのだから。
「義成」二人で桜の木の方向へ歩きながら問い掛けた。「わたしたちの生き方って、例えるといったいどのようなものでしょう?」
「一生懸命生きて、どのような事にも耐え、やがて人に知られず静かに消えていく……そのようなものではないのでしょうか?」
「それでは……」
やっと辿り着いた桜の木を、もう葉が一枚も付いていない木を見つめながら、わたしは言葉を探した。
「それではきっとわたしたちの生き方は、この桜の木に咲いていた、花なのかも知れませんわね」
「え?」
「強いて言うなれば、宵闇に咲く桜花──。一生懸命咲いて、でも、誰にも知られずにやがて散っていく、そんな生き方だと、わたし思いましたの」
返ってくる言葉はなかった。彼はただ、木を見つめていた。
わたしも木に視線を向ける。
何ともなしに、思い出が見えるような気がするけれども、霞がかかったように薄ぼやけていた。理由は分かっている。桜が咲いていないからだ。義成と同化したように見えた、あの花びらがないからだ。
もう一度、もう一度だけあの桜が見たい。
──どうかもう一度だけ、わたしにあの桜を見せて下さい──
いつの間にか、わたしは祈っていた。無理な事だと知りつつ、祈っていた。
その時。
目の前に桜が舞い降りてきた。驚いて、上を見上げる。
空から、桜が舞っていた。けれども、よくよく見るとそれは桜ではなく、大きな牡丹雪だた。白い雪が花びらのように舞い降りてくる。
気付いて義成の方を見ると、彼と雪が同化したように見えた。
思い出が、見えた──!
あの時の事が、今起こっているかのように甦る。その前の事も、その後の事も、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
急にわたしは、この世界が愛おしくなった。別に死ぬ事が嫌になったわけでなく、色々な人の様々な思いをもっているここが、愛おしいと思っただけだ。
もう少しいたいと思うけれども、もうここは、わたしたちを受け入れてはくれまい。死ぬ覚悟を決めたわたしたちが行かなくてはならないのは、もっと別の所なのだから。
「もう、行きましょう」
そんなわたしの気持ちを悟ったのか、義成が声を掛けてくれる。
「ええ」
わたしたちはどちらからともなく手を取り合って、岸辺の方に歩いていった。
岸に付くと彼はわたしの手を放し、水の中に入っていった。膝の辺りまで進むと、こちらに振り返って手を差し出す。
わたしは、上を見上げた。雪はまだ次々と降り続いてゆく。
……これ以上、何を望もうか。
義成とお腹の子供がいるだけでいい。妹たちには愛する人と子供がいるから、わたしには何も思い残す事はない。
今はただ、彼の事を、彼を愛していることだけ、考えたい──。
わたしは上げていた顔をゆっくりと下げ、義成に向かって微笑んだ。その微笑みに言葉を託して。
──わたしは、あなたを愛しています──
そうして義成の手を取り、一歩を踏み出した。
そのわたしたちの周りで、雪は、いつまでもいつまでも降り続いていった──。
──終章──
今上帝を傾けた(かたぶけた)という大罪を犯した者たち──誰かは明かされていない──を追捕(ついぶ)していた追捕使は、近江の湖で謀叛人の衣らしき物を見つけ、辺りを捜索したが水死体はあがってはいなかった。
その代わり。
衣の見つかった傍の木には、桜の花が色鮮やかに咲いていた。そして周りには、雪が降り積もった中に桜の花びらが混じっていた。
その事を聞いた新帝の女御は、独りそっと呟いた。
「きっと姉さまが花を咲かせたのだわ」と。
──如月も終わりに近付いている今、あちらこちらで桜の花が咲き始めている。
真実を知る者は、その白い花びらを見るにつけ、思い出すだろう。
逝ってしまった、二人の事を──。 |