── 序章──

 時は、平安の世。
 冬を告げるかのような冷たい風が、広い内裏の中を通り抜けていく。すっかり葉の落ちてしまった木々を揺らして。
 その風に混じり時折、人々の笑い声や、笛、太鼓の音、今様を詠む声などが聞こえていた。
 霜月の中辰の日である今日、紫宸殿では五穀豊穣を祝う豊明節会(とよのあかりのせちえ)が行われていたのである。
 宴もそろそろ終わりに近付いた戌の刻(午後八時)を過ぎた頃、不意に清涼殿の辺りから女の叫び声が聞こえてきた。
 一気に緊張の走った公達たちを制して、東宮左衛門佐(さえもんのすけ)の二人が「どうしたのだ!?」と声のした方へと走っていく。
 清涼殿の中まで行くと、夜の御殿と呼ばれる帝の寝室の前で、帝付きの女房がただ一人震えていた。警護にあたっているはずの衛士(えじ)が誰一人としていない。
(やはりな……)
 そう思いながら、東宮は女房の元に歩み寄り、何があったかを尋ねた。すると女房は、「さ、先程お休みになられた帝が、な、中で血を……」と途切れがちに呟いたかと思うと、気が緩んだのか気絶してしまった。
 咄嗟に彼女の身体を支えた左衛門佐は、はっとしたように東宮を見た。東宮は何も言わず、只一度、首を縦に振った。
 それだけで全てを悟った彼は女房の身体を静かに横たえると、一礼して急いでその場を去った。残された東宮は立ち上がり、そして呟いた。
「あの二人は、今どこにいるのだろうか?」 
まるで帝が殺められていた事も、彼を殺めた人物さえも知っていて尚且つその身を案じるかのように。
 しばらくして彼は、何事も無かったかのように紫宸殿に戻るため、歩き始めた。
 途中の渡殿の柱の陰に人の姿を見つけ、東宮は歩みを止めた。目を凝らしてみると、それは東宮妃であった。
 彼女は東宮の方へ歩み寄ると、彼が今、何を見てきたのか全て分かっている、というように頷いて言った。
「とうとう、姉さまたちは目的を果たしましたのね」
「あなたは……何か知っていたのですか?」
「ええ。姉さまから全てを聞きましたの。ですからわたくし、帝の回りにいた衛士たちに妹から貰った薬を飲ませて眠らせ、警護が手薄になるようにしたのです」
 妃のそんな告白に東宮は何も答えずに、そっと彼女の肩を抱き寄せ、空を見上げた。
「二人は、どこにいるのだろう……」
 彼はもう一度そう呟くと、ようやく昇りはじめた月をみつめた。
 その欠けはじめた月に、見えない何かを見い出すかのように……。

 

  一、出会い──近江の湖(うみ)のほとりで──

 

「姉さま、姉さま、大変よ!」
その日は、朝から庭の藤の甘い香がわたしの部屋の方にまで漂ってきていて、その匂いに誘われて、渡殿に座って匂いを楽しみながらくつろいでいると、末の妹の薔子(そうこ)が、先触れの女房も挨拶もそこそこに、「大変」と言いながら(たい)に走り込んできた。
 そんな彼女の行動に眉をひそめつつ、でもその『大変』が何か知りたくて、薔子に「何が大変なの?」と尋ねた。
「あのね……」
 彼女は息を切らしていて、話そうにもなかなか話せない。何度か深呼吸してやがて落ち着いたらしく、一気に話し始めた。
「あのね、姉さま。今までわたくし、つれづれにお庭を眺めていましたら、車宿(くるまやどり)で牛車の音がしたのですわ。わたくし、あの……また方違えにかこつけて、誰かが姉さまの気配を伺いにいらしたのかと思って、車宿の方を覗いてみたのです。そうしたら……!」
「まあ、今日はどんな方がいらしたのでしょう?」
 何故か興奮している妹の言葉を遮り、わたしは言った。
 正直、そのような方はよくいらっしゃるので、今更どうとも思えないのだけれど。
 そういう風にわたしが諭しても、彼女は興奮していた。
「姉さま、今日は違うの。そうではないの。いつもいらしているような方々ではないんです」
 その言葉に疑問の視線を向けると、薔子は堰を切ったように一気に言った。
「だって姉さま、今日いらしたのはあの御方なのですもの。源義成(みなもとのよしなり)さまなのですもの」
「え……」
 わたしは驚いて思わず持っていた扇を取り落としてしまった。
「本当なの、薔子。本当にあの御方がいらしているの?」
 勢い込んで聞くと「間違いありませんわ。わたくしその御方のお顔を拝見しましたもの。確かに三年前にお逢いした公達ですわ」彼女はきっぱりと頷いた。
「三年前……」
 わたしはそう呟きながら思いだしていた。三年前に起こった、あの忘れられない出来事を。
 ──あれは、わたしが十四歳の春の事だった。
 今は亡き父上と、妹の藤香(ふじか)と薔子と共に近江は石山寺に石山詣に出かけた時。わたしたちは帝の行幸(ぎょうこう)と重なってしまったのだった。
 ──石山に着くと、何故か辺りが騒がしかった。僧や里人らが落ち着きがなくざわついていて、わたしたち三人は驚いたり不思議がったりしていた。
 その日の夜、父上と対面した時に尋ねてみると、父上は笑ってこう言われた。
「ああ、それは帝が石山に行幸なさっているからだよ」
「まあ、帝がこちらにいらっしゃっているの?」
「そうだよ、若桜(わかさ)」
 父上は歯切れ悪そうに答えたけれど、わたしは帝が同じ所にいらっしゃるということで喜んでいた。 けれどもふとある事に気付いて、わたしは訊いてみた。
「あら。でもどうして父さまは行幸にいらっしゃらないで、わたしたちといるんですの?父さまと帝は血を分けた御兄弟ですのに」
「……それは、わたしが帝にお願いをしたのだよ。石山に大切な用があるのでお供はできませんと」
 父上はそうおっしゃったがある程度の事は想像がついた。きっと父上は帝に共としてついて行くことを拒まれたのだろうと。
 ──昔、父上は今上帝と東宮位を争った、ということを、わたしは女房たちの噂で聞いたことがある。その事で帝が父上を敬遠しているということも。
 今までは漠然としか分からなかったが、今、はっきりと分かったような気がした。行幸などという宮中の大切な用事に、私的な用事で抜けられるわけがないはずなのだから。
 わたしの表情でどんなことを考えていたのか分かったらしく、父上が苦笑しながら言った。
「でも若桜、帝がおわす所に決して近付いてはいけないよ。大事になってしまうからね」
「ええ、わかったわ、父さま」とわたしはその言葉に素直に頷いた。
 けれども次の日。
「ねえ、三人で帝がいらっしゃる筈の所に行ってみませんこと、姉さま?」と二人の妹にせがまれた時、わたしは父上の言葉を忘れて、頷いていた。何故ならわたしは帝の事が昨日からずっと気になっていたから。即位してもう十年も経っているのに、未だに父上を敵視している御方を一目見てみたかったのだ。
 そこでわたしたちは被衣(かづき)姿になり、できるだけ目立たないようにして、とりあえず湖(うみ)の方に行ってみることにした。
 はしゃぐ妹たちを黙らせながら歩いていくと細かった道が急に開けて、水の匂いがしてくるのと同時に人の声がしてきた。
(もしかして……)そう思って声のする方に行ってみると、湖のほとりに出た。その途端、わたしはまるで花畑に出たかのような錯覚を覚えた。
 そこには、束帯(そくたい)を召した公達がたくさんいて、どなたかを輿(こし)に乗せていらっしゃる所だったのだ。
 乗っていらっしゃるのはどなただろうかと、息を潜めて物陰で見ていると、風の為だろうか、ふいに輿の後簾が捲れた。
「……!」
 わたしたちは思わず息をのんだ。
 中には源氏君もかくやあらんというような、美しく、身分の高そうな御方がこちらを向いて座っていたのだ。
 その御方は何故かこちらの方、とりわけ藤香をみつめていた。
 藤香もまた、輿の方をじっとみつめていた。
「藤香、どうしたの?何を見ているの?」
 ついつい尋ねると、彼女は顔を赤らめながら俯いてしまった。
「な、何も見ていませんわ。どうしてそんな事、言うんですの……?」
 言い訳の言葉も小さく、あの輿に乗っていらした御方とみつめあっていた事を隠すようだったので、私は思わず知らず、微笑んでしまった。
 と、その時。
 何処から現れたのか、(ほう)を見事に着こなした若い公達がわたしたちの方に歩み寄ると、いきなりわたしの手を取り、驚きで一言も発する事の出来ないわたしを、せかすかのように歩き出した。
 藤香はわたしの手に、薔子は藤香の手にそれぞれ掴まっていたので、三人は数珠つなぎのような感じで彼に引っ張られていた。傍から見れば、きっと滑稽に映っただろう。
 ──彼は、先程の場所から見えない小さな桜の木の下に来ると素早く手を離した。
 これまで、男性と言えば父上としか対面した事のなかったわたしだが、この公達にこうして連れてこられても、不思議と違和感はなかった。
「あの……、一体、どなたさまでしょうか?何故わたくしたちをこのような所に?」
 それでも疑問に思い恐る恐る問うと、彼は微笑み、そして言った。
「名乗るほどでの者ではございません。ただ、今からあの道を東宮さまがお通りになるので、急ぎこのような所へお連れしてしまいました」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、私は小さな悲鳴をあげ、その場に座り込んでしまった。
 あの煌びやかな御方が東宮さまだったとは。何と恐れ多いことを……! 私は慌てて立ち上がり、彼に言った。
「東宮さまがもし、わたくしたちの事をお尋ねになったら、このようにおっしゃって下さいませ。わたくしたちは式部卿宮女(しきぶきょうのみやのむすめ)でございます。恐れ多くも今上の御姿を遠くからでも拝見しようと思った女子供の浅知恵から、あのような所に行ってしまいました。お許し下さいませと」
 すると彼はゆったりと笑った。
 彼の容姿は同じくらいの少年のものなのに、その笑いは大人びていて、わたしは少なからず驚いた。
 瞬間、被(かづ)いていた布が飛んでしまいそうな程の風が吹き、桜の花びらが空中に舞った。
 その時彼が桜の花と同化したように見えて、私は思わず目を擦った。そして改めて彼の顔を見ると、ふっと目が合った。途端に、自分の顔が赤らんでくるのが分かった。
 そんな顔を見られてしまうことが恥ずかしくて、彼から視線を外し湖の方を見ると、人が歩いてくる姿が目に入った。
 私は慌てて二人の妹の手を取り、「誰かがこちらの方に来たようでございます。見咎められるといけませんので、わたくしたちはこれで」と言い、その場を急いで離れた。
 先程の顔のほてりを忘れようと、手を引いている妹たちのことも忘れて急ぎ歩いていると。
「お待ちになって下さい」
 先程会った公達がやってきて、わたしの袖を引いた。
「何でございましょうか?」
 振り向くと、彼は言った。
「あなたのお名前を教えて下さいませんか?」
 私は一瞬躊躇った。しかし、「何故そのようなことを? わたくしの名を訊いて、どうすると言うのです」と手を振り払い駆け出した。すると、彼の声が後ろから追ってきた。
「いつか、わたしの北の方になっていただきたいからですよ……」
 わたしには、そう聞こえた……。
 ──宿坊(しゅくぼう)にしている寺に帰ると、三人揃って父上からお小言を言われてしまった。しかし、わたしはあの公達の姿と声が頭から離れず、殆ど父上の話を聞いていなかった。
『いつか、わたしの北の方になっていただきたいからですよ』
 あの方は、何故わたしにそのようなことを……。その時のわたしには、何も理解出来なかった。

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