それから半年後……。
 午の刻(午後十二時頃)頃、急に渡殿の辺りが騒がしくなり、わたし付きの女房であり、乳姉妹(ちしまい)でもある香住が、うたた寝をしていたわたしの前に走り込んできた。
「わ、若桜さま、姫さま、大変でございます!」
「どうしたの、香住?」
 何が起きたのか分からず寝ぼけたまま尋ねると、彼女は今にも泣き出してしまいそうな声で、
「ただ今宮中から早馬が参りまして、殿さまが……」
「父さまが、どうかなさったの?」
 わたしも、俄かに緊張して問い返した。
「宮中で今上とお語らいの最中に……、頓死なされたのですわ……!」
「えっ!?」
 香住は言い終えると、たまらないというように、その場に崩れ落ちてしまった。
 わたしは、しばらく呆然としていた。
 父上が、亡くなられた……。本当に?
 頭に霞がかかったようで、考えることが出来ない。
 ──けれども邸の者が皆、慌てふためいているのを見て、本当の事なのだと悟った瞬間、ふっと意識が遠退いていった……。
 この時から、平穏だったわたしの人生は狂い始めたのだと思う。
 あれ程父上を敬遠していた帝が(他の公卿を通じてではあるが)、後見をしたいと言ってきた。わたしたちは「何故?」と疑問に思いつつも、その申し出を受けた。いや、受けざるを得なかった。
 そうしなければ主人(あるじ)を亡くしてしまった宮家など、みるみる零落れてしまうのは目に見えていたから。
 一年間喪に服し、それが明けると同時に藤香が東宮妃として入内することになった。父上が生きていた時からこの話は東宮の方から出ていたらしく、父上が亡くなったことで一時期もめたものの、東宮が「ぜひ妃に」と言って結局は決まったらしい。
 彼女が後宮(こうきゅう)で無事に過ごせるのかどうか心配したけれど、持ち前の性格で誰にでも好かれ、わたしは胸をなでおろした。
 その後すぐ、わたしには求婚の文が毎日来るようになった。
 女房たちは喜んでいたが、わたしには只うっとおしいだけだった。何故なら文の殆どが、皇族と縁続きになりたい──そんな書き方をしていたから。
 でも、全ては口実だった。
 何故なら、わたしはあの公達の事しか考えられなかったから。自分でも気付かないうちに彼に恋い焦がれていたから。あの、『もう少ししたら……』の言葉をいつの間にか信じるようになったいたから。
 だから、誰とも結婚したくなかった。
 けれども、わたしはあの方の事を、何一つ知らないのだ。
 一体、どういうお方なのだろう──。
 そこで藤香に頼んで、彼の事を調べてもらうことにした。
 きっと彼女なら、何かの折に会ったことがあるのではないか、或いは東宮さまからお名前くらいはお聞きしたことがあるのでは……そう思ったからだ。
 文を出してから何日かした後(のち)、藤香から文が届いた。
(どんな事が書いてあるのだろう……)
 はやる心を落ち着かせようと、人払いをし深呼吸すると、急いで文を広げて読み始めた。『姉さま、お元気でしょうか?
 先日は御文をありがとうございました。読んだ後、早速東宮さまにあの御方の事をお聞きしてみました。
 あの御方の名前は源義成さま。齢は姉さまより一つ年上の十七歳だそうです。
 けれど、これだけの事をお聞きするのに随分時間がかかってしまいましたの。 東宮さまは義成さまの事をお聞きしようとすると口が重くなって殆どお話なさらないんです。
 けれども引き下がらないでいたら、ようやくお話しして下さったのですが、その内容に本当に驚いてしまいましたの。
 実は義成さまは、東宮さまの異母兄上、今上の第一子なのです。
 けれども御生母さまの身分が典侍(ないしのすけ)だったため、今上が彼を臣下に下らせようとしたのですが、典侍さまは反対してかなりもめたらしいのです。けれども、義成さまが元服をなさる直前に典侍さまが病死してしまい、結局源氏の姓を賜り、臣下に下ったそうなんです。──東宮さまがわたくしにあまりお話ししたがらなかったのは、同母兄のように仲の良かった義成さまに負い目があったからだと思います。
 臣下に下った後はとても優秀で、近衛中将にまで出世しています。
 あと、六条の方に典侍さまから譲られた邸があって、今はそのお邸に住んでいるそうです。
 とりあえず、義成さまに関しては以上です』

 ここまで読むと、わたしは一息つくため香住を呼んで、御簾を上げさせた。 一気に彼──義成さま──の事を知って頭が混乱してしまったので、庭を眺めながら頭の中を整理しようと思ったのだ。
 石山詣でから帰ってきた後植えさせた桜の木を眺めながら、わたしは義成さまを思い出していた。
 彼が、今上帝の御子だったとは……。
 あの方は帝を、東宮さまを、どのような気持ちでみつめているのだろう? どれほど、やるせない思いを抱えているのだろう──。
 そんな事を考えていると。
「姫さま、大変ですわ! 東宮妃さまからの御文、最後までお読みになりました!?」
 ふいに香住の慌てた声が聞こえてきた。
「え、読んでいないけれど、どうしたの?」
「申し訳ありません。そこに御文があったものですから目を通してしまったのですが、東宮妃さま、身籠っていらっしゃるようですわ」
 彼女の言葉にわたしも慌てて、文机に置いてあった文を最後まで読んでみた。するとそこには、まだ世間には公表してはいないが、長月には子供が生まれるとの事が書いてあった。
『もう少ししたら里下がりをすると思います。色々御迷惑をかけますが、よろしくお願い致します』
 最後はこう括ってあった。
 香住は何度も「まあ」と言いながらわたしの周りを何度も回ったかと思うと、ふいに思い付いた様子になり、
「そうですわ。今からでも里下がりの為に対を整えなくては。これ。和泉に鈴鹿、おいで」
 傍に控えていた女房を二人も引き連れ、嵐のように退出していった。
 彼女の気の早さにわたしは呆れ、思わず大きなため息をついた……。
 ──それから二月後。藤香(本来は東宮妃さまとお呼びしなければいけないのだけれど、つい昔の呼び方で呼んでしまう)は里下がりをして、長月には玉のように美しく愛らしい男宮さまがお生まれになった。
 宮さまと藤香は如月頃まで邸に留まり、そして参内した。
 その間にも何人もの公達がわたしの元に来てはいたが、対面を頑なに拒んでいたため、そのうち皆、薔子に心が移ってしまったようだった。
 嬉しいような、いらして頂いた方に申し訳ないような気持ちでいたちょうどその時に、源義成さまはわたしの元にいらっしゃったのだった……。
「──さま、姉さま、どうなさったの?」
 薔子の声でわたしは考えの淵から引き戻された。
「大丈夫、姉さま? まるで『魂ここにあらず』と言うような感じでぼーっとしていたけれど」
「ぼーっとしていたわけではないの。思い出していたのよ。あの近江の湖での出会いから今までの事を」
 わたしは苦笑しながら答えた。
 と、その時。渡殿の辺りで人の走る音がしたかと思うと、今度は香住が御簾の中に走り込んできた。
「ひ、姫さま、大変ですわ!」
 香住が慌てているのはきっと義成さまの事だと思い、わたしは彼女に問い掛けた。
「源義成さまが、いらした事?」
 すると香住は驚いて目を丸くした。「何故、その事を……」
「薔子が教えてくれたのよ。ちょうど義成さまがいらっしゃった所を見ていたらしいの」
「でも、それだけではございませんわ! 義成さまは姫さまと対面したい、そうおっしゃったんです」
 先に話されてしまった悔しさからか、わたしに報告しながら彼女は薔子にきつい視線を送った。その事に気付いた薔子は「姉さま、わたくしもう自分の対に戻ります。今度、義成さまとどのような話をしたのか教えて下さいね」と言い残し、逃げるように出ていった。
 でも実は、その彼女の言葉は殆ど耳には入ってこなかった。義成さまが“対面したい”と言った事に少なからず驚いていたからだった。
 そんなわたしを尻目に、香住はまだ悔しそうな顔をしながらも、いそいそと円座(わろうだ)を整えたり几帳を直したりしていた。
「あの、若桜さま」
 これからの事を考えると少し緊張してしまって深く深呼吸をしていると思い出したように香住が声を掛けてきた。
「なあに?」
「以前、女房たちの噂で聞いたのですけれど……」と一旦言葉を切った後、言おうか言うまいか悩んでいたようだったが、やがて「……義成さまには婚約者がいらっしゃるとい……。とても美しい、年上の方だとか……」と小さな声で言った。
 俄かに胸が苦しくなった。
「香住、その相手がどのような御方か知っているの?」
 これだけを言う事さえ、やっとだった。
「確か、承香殿女御(しょうきょうでんのにょうご)さまの妹姫、左大臣家のニの姫さまだと……」
「──そう」一瞬、目眩がした。
 義成さまの心が、わたしには全く分からない。昔から幾度となく繰り返していた疑問が、今さらながらに甦る。
 ──何故義成さまはわたしのような者にあのような言葉を残されたのだろう──。
 ……考えているうちに、やがてさやさやと衣擦れの音がして、先導の女房と共に紅梅の直衣(のうし)も鮮やかな美しい公達がやってきて、几帳の前に座った。
 三年ぶりの、出会いだった。

 

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