二、再会──藤の香に包まれて──

 彼の顔を垣間見た途端、私は思わず目を見張った。たった三年の間に、見違える程変わっていたからだ。
 昔は少し残っていた幼さがいつの間にかなくなり、大人の魅力が漂っている。時が経つのも忘れて見とれてしまうような、美しさだった。
 私は扇を鳴らした。すると潮が引くかのように女房たちが退がっていった。
 皆がいなくなったのを見届けた後、扇で顔を隠しするりと御簾の外に出て、
几帳(きちょう)の前に座った。
(もっと彼を間近で見たい……)そう思って目を凝らして彼を見ようとすると、几帳の反対側から低い声がした。
「若桜さま、何故に私を見ようとなされるのですか?」
 私はその言葉に押し黙ったままだった。
 ──二人の間に沈黙が流れた。
 しばらくすると、義成さまの方がその沈黙を破った。
「あの……若桜さま、御声を聞かせては頂けないのでしょうか? 三年前は、とても可愛らしい声で話して頂いたのですが」
「え、あ、あの……」
 ……私はあまり、義成さまに声を聞かせたくはなかった。十四の子供ならいざ知らず、十七にもなったわたしにはとても恥ずかしい事のように思えたからだ。
 しかし義成さまは、その考えを破らざるを得ない一言を漏らしたのだ。
「残念ですね。でもいいでしょう」と。
 その言葉にわたしは思わず知らず彼に問い掛けていた。
「それは、どういうことですの?」
 義成さまは、微かに微笑まれた。
「若桜さまには、私の北の方になって頂くからですよ」
 そんな言葉を事も無げにさらりと口にしたので、私は顔を赤らめてしまった。けれどもその言葉を聞いた途端、先程香住が言っていた『左大臣のニの姫さま』と、三年前からの疑問が頭の中に甦ってきた。
 何故、彼はその『ニの姫さま』との結婚の噂があるのに、わたしを北の方になさろうとするのだろう……?
 耐えかねて、先程決意した事も忘れて自ら問い掛けていた。
「何故義成さまは、わたくしにそのような言葉を申されるのですか? あなたさまは……今上の御子なのでしょう? そのような方がどうして、左大臣のニの姫さまとのお話を断わってまで……何故ですの?」
 すると義成さまは急に真面目な顔つきになり、わたしのいる方をじっと見つめてきた。そして、不意に言った。
「あなたに、恋をしてしまったのですよ。三年前に出会った時は、とても可愛らしい姫だと、心に留めてはいました。
 しかし今、再会した時に確信したのです。わたしは若桜さまに恋をしている。この心の想いは誰にも止められないと」
「──」
 わたしは、声が出なかった。ただただ、驚いていた。
 義成さまが……わたしが想いを寄せていたあの方が、わたしに恋をしている──?
「雪姫さま──左大臣家のニの姫の名前です──はわたしの元服副臥(そいぶし)の相手だったのです。しかし、別に結婚したというわけではありません。その縁で、何かの折に歌を送ったりと行き来がありますが……」
 彼はしきりに『雪姫さま』との間柄を弁解していたが、わたしはほうけていた。義成さまがわたしに想いを寄せていた──と言う事を、わたしは未だに信じる事が出来なかったのだ。
 しばらくして彼がついと円座から立ち上がった時、ようやくわたしは我に返った。
 何のために立ち上がったのだろう。まさかこのままお帰りになるのだろうか?
 そんなわたしの心配とは裏腹に、彼は部屋の端の方に行き御簾を持ち上げて外を見ていた。
「若桜さま、ごらんなさい。藤が咲き誇っていますよ」
 その言葉に、几帳の陰から顔を出しその方を見遣った。そこには、朝から香っていた藤の花が紫の色も鮮やかに咲いていた。
 なんと美しい光景なのだろう。
 わたしは咄嗟に目を瞑り、今見えたものをしっかりと心に焼き付けようとした。
 藤と共に見えた、義成さまの姿を。
 それはあまりにも美しく、そして清らかだった。
 ──ふと背後に気配を感じ振り返ると、先程まで向こうにいたはずの義成さまがいた。彼はわたしと瞳が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「やっと本当にお逢いできましたね」
 扇で顔を隠そうとしたわたしは下にそれを置いていた事に気付き、急いで袖で顔を隠した。
 義成さまはこちらの方までゆっくりと歩いてきて、わたしの手にそっと触れた。
 その一瞬後には、彼の腕の中だった。
 慌てて腕の中から逃れようと必死になってもがいた。けれどもどうやっても出る事が出来ないのだ。一見すると女と見紛うような公達の、どこにこのような力があるのだろう。
 それほどの力でわたしは抱き締められていた。
「お離し下さいませ。お願いでございます」
 そう哀願すると、義成さまはわたしの耳元に「若桜さま、あなたはわたしがお嫌いですか?」そう囁いた。
 まさかあからさまに答えられるわけがなく、かと言ってどのように答えたら良いのかと口ごもっていると、義成さまの腕に一層力がこもり、更に息もつけない程の力が加わった。
「よ、義成さま……」
 やっとの事で弱々しく名前を呼ぶと、もう一度、彼は尋ねてきた。
「あなたはわたしが、お嫌いなのですか?」
 わたしは首を思いきり横に振った。
「いいえ、いいえ、わたくしも同じなのです。初めてお会いした時からずっと……」
 話しているうちに、頬に熱いものを感じた。いつの間にか、泣いていたのだ。
 ──溢れて来る涙を拭おうともせずに、わたしは一気に言い切った。
「わたくしもあなたに、恋していたのですわ……」
 ──そんなわたしの涙を、義成さまはそっと拭って下さった。
 勢いで告白してしまった自分が恥ずかしくて下を向いていたけれど、いつまでもそうしているわけにはいかないので、そっと顔を上げてみた。
 義成さまと、ちょうど目が合った。
しばらくお互い、見つめ合っていた。
 ……どれほどの時が、経っただろうか。ふっと視線を外した彼が、わたしの頬にそっと触れてきた。
 彼の顔が近付いてくるのを感じて、わたしはそっと、目を閉じた……。

 

 ──次の日の朝、わたしは廂の間で寛いでいた。
 身体の節々が痛くて少し疲れていたけれど、頭の方はすっきりとしている。
 でも本当は少し休んだ方がいいのかもしれない。昨日はあまり眠れなかったし。
そんな事を考えながら脇息に寄りかかった途端、昨日と同じような足音と共に薔子が現れた。勿論挨拶も、先触れの女房もなしに。
「姉さま!」
 よほど興奮しているのだろう、息を弾ませながら話している。
「どうしたの? まだ辰の刻(午前八時頃)にもなっていないのに。珍しいわね」
 いつもは巳の刻(午前十時頃)にならないと薔子は起きないのだ。
 そんなわたしの指摘に彼女は顔を赤らめながらも小声で「珍しい、じゃありませんわ! 昨日義成さまが姉さまの所にお泊まりになったという話を聞いたものですから……。二人は……もしかして、結婚なさったんですの……?」と聞き返してきた。
 薔子の露骨な物言いと、本当の事を言われた恥ずかしさ、そして昨日の事を思い出してしまったがために、今度はわたしが顔を赤らめる番になってしまった。
「ええ……」
 わたしがぎこちなく答えたのと同時に、また渡殿の方で足音がして、
「若桜さま!」
 香住が御簾の中に転がり込むように入ってきた。
「み、源義成さまの使者と言う者が参りまして、姫さまにと文箱をわたしていったのですわ。わたくし失礼とは思いながらも中を拝見させて頂いたのですけれど。これは紛れもなく
後朝(きぬぎぬ)の歌ですわ。と、言う事はお二人は……」
 わたしは、小さく頷いた。すると香住は嬉しそうな顔をして、わたしの手を取って言った。
「ああ、本当に良かったですわ。姫さまの事、とても気になっていたんです。わたくしも一安心ですわ。でも……」
「でも?」
「どうしても、疑問が残るのです。何故義成さまは姫さまの所にいらっしゃったのか。どうもあの御方には何か内に秘めているものがあるような気がするのですけれど……」
「ああ、あの事?」
 ──実はわたしは、今香住が言ったような事を昨夜尋ねてみたのだ。義成さまがわたしと結婚したのは恋い慕う心、只それだけなのかと。
 けれども、彼の答えは素っ気ないものだった。
「先程申し上げた事、ただそれだけですよ」
「わたくしにはそうは思えないのですけれど。それ以外の何かがあるような気がして……」
 すると、彼は微笑んだ。
「いずれお教えしますよ……」
 ……一体、義成さまの言おうとしている事は何なのだろう? そうは思ったが、彼の事を信じてそれ以上問うのをやめたのだ。
 けれども今改まって香住に問われると、どうしても気になってしまう……。
 あの人には、尋ねたい事、分からない事が多すぎる──。
「姫さま、若桜さま!」香住が呼ぶ声でふと我に返った。
「義成さまからの御文、御覧になられたらいかがです?」
「あ、そうね」
 わたしは文机(ふづくえ)に置いてあった文箱を取り上げた。
「まったく、姉さまったら本当にほうける事が多いですわね……」などと言う薔子の呟きを、聞かないようにしながら。
 紐をほどいて蓋を開けてみると、中には萌黄(もえぎ)色の料紙(りょうし)が入っていた。はやる気持ちを抑えながらそっと文を開くと、力強さと繊細さを合わせ持った美しい文字が並んでいた。


   
匂鳥(におうどり) 止まれる木々の 桜花
          手折らむ程に 愛しくおもわん


「わたしはいつの間にか桜の花のようなあなたを、手折ってしまう程に愛してしまっていた……思わずため息が出てしまうような歌ですわ……」
 横から文を覗き見していた薔子が、本当にため息をつきながら呟いた。
「本当に姉さまの事、愛していらっしゃるのね」
「薔子さまの言う通りですわ。こんなお歌を見てしまうと、先程考えていた事もどうでもよくなってしまいますわね」
 香住の言葉に頷きながら、
「私もあの御方が好き。たとえどんな事があっても、あの人の傍にいたい。あの人の願いは、何があっても、どんなことでも叶えたい……」
 私の心の底からの、言葉だった。 

 

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