それは突然の出来事だった。
皐月(さつき)も終わりに近付いていたある日、昼餉(ひるげ)も食べ終わり、さあこれから何をしようかと考えていると、そこへ薔子の乳母の子、安芸(あき)が現れた。
心なしか、顔が青い。
「安芸、どうしたの? 薔子がまた何か危ない事でもしたの?」
尋ねると、彼女は身体を震わせながら、
「いいえ、そうではありませんけれど……」と否定するが、明らかに何かあった様子で落ち着かない。とてつもない事が起きているのだと悟ったわたしは、薔子の対に行く事にした。
着いた途端に、異変に気付いた。いつもなら薔子のために騒々しいはずの対、それが異様な程静かだったのだ。
「一体どうして?」
安芸に聞くと。
「薔子さまが苛立っていらして、その様子に女房たちが皆怯えてしまって、誰もが局(つぼね)に引き蘢っているからですわ」
彼女の言葉を、わたしは意外な気持ちで聞いていた。
薔子は少々おてんばな所はあるけれどとても優しい子で、滅多な事では怒ったりしないし、女房やお半下(はした)の童にもよく気を遣うのだ。
何故なのだろう? 彼女の身に何が……。
急いで東面(ひがしおもて)にある薔子の部屋に歩いていこうとした時、目の端にちらりと薔子の姿が映った。
慌てて追い掛けながら声を掛けようとしたわたしは、立ち止まり物陰に隠れた。何故ならそこにはもう一人、人がいたからだ。それは蘇芳(すおう)の直衣(のうし)を着た、十五、六歳位の公達だった。
二人は何やら言争っている様子だったが声が良く聞こえず、わたしは耳を欹(そばだ)て、とりあえず話を聞く事にした。
今出ていく事に躊躇いを感じたから。
「昨日、詳しく調べて頂いたのですけれど、やはりそうでしたわ」
「そうでしたか……」
「そんな他人(ひと)事のような言い方、やめてください! あなたにだって関係があるでしょう?」
「いえ、そういうつもりで言ったわけではないのです。他人事とは思っていません。でも……」
「でも、なんですの?」
……どうして、二人はこうも遠回しな言い方しか出来ないのだろう?
聞いていても、何が何だか分からず苛立ってしまい、思わずその場から飛び出して薔子に詰め寄った。
「薔子、どうしたの? なにがあったの?」
「ね、姉さま……」
彼女は不意に現れたわたしを見て、驚愕のため大きく目を見開いてこちらを見た。けれども一瞬後、顔を歪めたかと思うと涙を目に浮かべながら、わたしの胸に飛び込んできて、激しく泣き始めた。
そんな彼女の頭をそっと撫でてやりながら、鋭い視線を横にいた公達の方へと向けた。
──後々考えると、初対面の公達の前へ堂々と出ていったあげく睨み付けてしまった自分が恥ずかしかったが、この時は全く気にしなかった。ただ妹を泣かせた彼が許せなかった。
わたしの視線に意を決したのか、彼は薔子とわたしを交互に見やりながら、話し始めた。
「大変失礼致しました。わたくしは中務卿宮(なかづかさきょうのみや)の子、今は左衛門佐(さえもんのすけ)に任じられているのものでございます。実は、お噂を聞いて……若桜さまに求婚していた者だったのですが、半年程前にこの邸に参りました時に薔子さまと出会いまして色々あってその……結婚したのです。今日このような事になったのは、彼女が身ごもっていると聞いたものですから……」
「えっ?」
わたしは耳を疑った。
今確かに“結婚”と“身ごもる”という信じられないような言葉を耳にしたような気がするのだが……。
「本当なの、薔子。左衛門佐さまがおっしゃった事は、本当なの?」
わたしは泣きじゃくっている薔子に、食って掛かるように尋ねていた。
「本当ですわ。わたくし左衛門佐さまと初めてお逢いした時、口論してしまいましたの。その事でお詫びの文を書いたりしているうちに、だんだんとお互いの事を想うようになっていって……、三月程前に結婚したのです。けれども、身ごもったかもしれない、という文を出した辺りから全く返事がなくて、ようやくいらして頂いても何だか上の空で……。嫌われたくないのに、何を引き換えにしても惜しくないくらい、左衛門佐さまの事、想ってますのに……。こんな事なら子供なんていりませんわ!」
薔子はそう叫んだ。
わたしは何も言えずに、ただ佇むことしかできなかった。
と、急に薔子の身体が傾いだと思うと、簀子縁に崩れるように倒れた。
「薔子!」
叫んで身体を揺すってみたが、起きる気配は全くない。急いで医師を呼ばなければ……。
「左衛門佐さま、彼女を部屋へお運び下さいませ。医師に使いを出しに行きます」
言いおいて、わたしは走り出した──。
──しばらくして、医師がやってきた。
薔子が倒れたのは興奮の為で、子供の方に影響はないと聞き、二人、胸を撫で下ろした。
「左衛門佐さま、少しよろしいでしょうか?」
医師が帰った後、わたしは彼に話し掛けた。
「何か……?」
「本当のところ、薔子の事、どう思ってますの?」
「……」
彼は俯いて何事か考え込んだ後、一気に話し始めた。
「先程彼女も言っていましたが、初めて逢った時、言い争いをしたのです。些細な事だったのですが。その時は正直言ってあまり……興味はありませんでした。
でもその後すぐにお詫びの文を頂いた時、ふっと、あの姫は口では色々言っていたけれど、本当はとてもいい姫なんだな、そう思ったのです。
何度か文のやりとりをして、だんだん彼女の良さが分かるにつれ、その考えは愛しさに変わっていって、それで結婚したのですが……」
と、ここで彼は言いにくそうに下を向いてしばらく黙った後、小声でまた話し出した。
「──実は両親に反対されてしまったのです。彼女の文も全て止められてしまって。でも昨日ようやく両親にも許しを得られ、その時に見せてもらった文で初めて彼女が身ごもっているかもしれないと言う事を知って……」
「左衛門佐さまはその事を嫌がっておいでですの?」
わたしがそう訊くと、左衛門佐さまは大きく頭を振った。
「そのような事はありません。むしろ、とても嬉しいのです。二人の愛が、お互いの心の結晶ができる事が……。わたしには彼女が何よりも愛しいのです」
話し終えた彼の顔は、とても美しかった。
──羨ましい。 不意に心の中にそんな思いが出てきて、わたしは困惑した。
何故?
そっと心を探ってみた。
すると、一つの答えに行き当たった。
──彼らの、お互いを愛する純粋な想い、それがとても羨ましいと思ったのだ。
では、わたしたちは?
羨ましい、そう思うのならば、わたしたちはどうなのだろう……。
しばらく考えてみたけれど、結局、答えを見つけだす事は出来なかった──。 |