「──あの頃、父帝と母上はわたしの事で対立ばかりしていて、二人の間に挟まれて苦い思いを味わっていました。
ところが元服が決まったその日に、父帝がわたしと母上の殿舎にいらして、一緒に食事をしようとおっしゃったのです。やがて夕餉が運ばれてきて、わたしは出されたそれを食べようとしました。すると母上が夕餉を取り替えようとするのです。母上の言われた通りに素直に取り替えました。その夜、母上は頓死なされたのです。それまでどこも悪いと言われた事はなかったのに」
「ではその中に……毒物が入っていたと……そういう事ですか?」
あまりの恐ろしさのあまりに震えてしまったわたしの手を彼は握り締めてくれ、そして頷いた。
「それでは帝は、あなたを殺めようとしたということではありませんか!」
「その通りです。母上はその事に気付いていたのだろうと思うのです。そうでなければ、何故あんな事をしたのかが……」
「でも、帝はどうしてあなたの事を? 典侍さまと対立していらっしゃったのなら、義成を殺めようとするのは筋違いのような気がするのですが……」
「二人はわたしが生まれる前、とても仲が良かったと聞いていました。わたしがいなければ……と父帝は考えていたらしく、そこで思い余ってわたしを殺めようと……」
彼の話はある程度分かったがわたしとの繋がりが全く見えてこず、困惑していた。そこでわたしは義成に尋ねた。
「あなたの話は分かりましたわ。でもそのことがわたしに関係があるとは思えないのですけれど……」
義成はこちらを見た。意を決した瞳で。
「──あなたの父上も、同じように父帝に殺められていたのだとしたら?」
「え……」
わたしは驚きのあまり言葉が失せ、続く言葉が出なかった。
父上が、帝に殺められていた……? それは……。
「母上が事故とはいえ父帝に殺められていたのを知っていたのは父帝本人とわたし、毒を盛った女房の他に、もう一人いたのです。あなたの父上、式部卿宮です。彼は毒を盛った女房と恋仲にあり、その事を知ったのです。けれどもそのことが父帝の耳に入ってしまい……」
「それで、それだけのことで、父上は殺められたんですの?」
「……」
義成は無言で、一度だけ、首を縦に振った。
わたしは呆然として揺れる灯を見つめた。いつの間にかその明かりはぼやけ始め、幾つもの光の輪になっていった。
「若桜……」
彼が握っていた手を更に強く握り締めてくれた。そうしてもらっただけで涙が止まった。
「父上の死の真実がそんな事だったとは……。わたし、これまでも帝の事をあまり良い御方とは思ってはいませんでしたけれど、それほどひどい御方だったなんて──」
すると義成は両の手でわたしの手を包み、そして言った。
「若桜……わたしはずっとあの元服が決まった日の事を悔いていたのです。そして、故式部卿宮の事件。それを聞いた時わたしはある願を掛けたのです」
「──それは?」
「あなたと共に、帝を殺めようと」
この言葉を聞く前に、わたしは心を決めていた。彼を信じ、そして彼のためならどんなことでもすると。しかし今義成が語った言葉の恐ろしさに、少なからず驚いた。
いくらわたしたちの親の敵とはいえ、恐れ多くも帝を殺めようとするなんて──。
それに、衛士たちに十重二十重(とえはたえ)に守られている帝の所にどうやって行くのだろう?
そんな心配が顔に出ていたのだろう。義成は言葉を重ねた。
「もう、準備は殆ど終わっています。あとは若桜、あなたの返事次第なのです」
「殆ど、というのは? 何が終わっていないのですか」
「……一人だけ、あなたが内裏に忍び込む時のために必要な方がいるのです」
「誰ですの?」
そう尋ねると、彼は少し黙った。しばらくして歯切れ悪そうに口を開いた。
「──雪姫です」
「何故、雪姫さまが?」
「──まず、内裏に参内するのに身分から言っても申し分ないですし、それに言い忘れていましたが、彼女も、わたしの母上、あなたの父上を殺めたのが誰かを知っているのです」
わたしは複雑な気持ちだった。どうして雪姫さまが知っているのだろう。義成と多少何かしら付き合いがあったとはいえそんな重大な事を……。
「雪姫さまは、協力して下さるとおっしゃっておられるんですの?
「いえ、言ってはいません。そろそろ切り出さねば……とは思っているのですが」
「では、わたしにその役をお任せ願えませんか?」
そう切り出すと、義成はとても驚いた顔つきになった。
わたしはそのまま話し続けた。
「わたしはあなたの妻になった時から、あなたの為ならどんな事でもしようと誓ったんです。あなたが雪姫さまのお邸に行ってあらぬ噂を立てられるより、わたしが行った方が怪しまれないのではなくて?」
彼はまだ驚いたようにわたしを見つめていた。
「それに、妹たちにも聞いてみますわ。父上は殺められたんですもの。二人とも協力してくれると思いますわ。その前にわたしがあなたの片腕となって一生懸命協力しますわ」
──わたしは本気だった。以前、後朝の歌が届いた時に呟いた言葉が、わたしの決心を堅くさせていた。
「……分かりました」
義成はそう答えると、わたしをそっと抱き寄せてくれた。心地よい体温と匂いのする中で、そっと目を瞑っていた。
その時。わたしはふと、ある事に気付いた。それは信じられない程悪い考えで、必死でその考えを消そうとしたのだが、更にどんどん膨らんでいき、堪り兼ねてわたしは口を開いた。
「もしかして義成は、自分の復讐をする為、わたしを協力者にする為に、結婚したんです……」
「そんなことはありません!」
激しい口調で彼はわたしの言葉を遮った。
「別にそのようなつもりで結婚したわけではありません。一緒にいたいから、愛しているから結婚したのです」
「その言葉は、本当ですか?」
彼の顔を見つめながら問うと、わたしの目を見ながらしっかりと頷いてくれた。
それでも不安で、彼の腕の中でしばらくじっとしていたが、その心の中に住みついてしまった思いはいつまでも消えていきはしなかった……。
次の日。わたしは藤香と薔子に、昨日義成がわたしに言った事そのままを書き、協力を求めた文を送り、雪姫さまにも文を送った。
しばらく経つと、三人から返事が次々と送られてきた。
『姉さま、申し訳ありません。本当ならお手伝いしたかったのですけれど、やはり東宮妃と言う立場上、表立って動く事は無理だと思うのです。
でも帝のなさった事は許せません。
もし内裏、特に後宮の方でできることがあれば、おっしゃって下さい。わたくしにはそれくらいの事しかできませんけれど。
それでは。取急ぎ一筆まで』
『姉さま、わたくし邸を出る時お約束しました。姉さまの幸せの為なら手伝える事は手伝いますと。その言葉に嘘偽りはありません。ですからわたくしにできる事なら何でもおっしゃって下さい。
但し、動く事はまかりならないと思いますけど。
それ以外の事でしたら、喜んでお手伝いします』
『若桜さまからの御文を受け取り読んで、ただただ驚いております。
わたくしは何かの折に近衛中将さまからあの事を聞き及びました時も、胸が塞がる思いが致しました事、今この時でもはっきりと思い出す事ができるくらいですので、若桜さまの事を思いますと、胸が痛みます。
是非、お二人のお力になりたいと思います。
それにつきまして、今後の事などを御相談したいと思いますので、明後日の亥の刻に、わたくしの邸においで下さいませ。その為の車などはこちらで御用意致しますので。
ただし、若桜さまお一人でおいで下さいますよう。
お待ちしております』
──わたしは義成に皆からの文を見せ、今後どうするかを話し合った。
「……まず、明後日雪姫さまのお邸に行った時に、後宮に入れるように取り計らってもらいます。それから、どうにかして帝の所に行き……」
「若桜、何もあなた一人で全て事を起こすわけではないのですから──」
彼の諌めの言葉に、とりあえず頷いてみた。
「分かっていますわ。ところで、義成は帝をどのように殺めようと思いますの?」
「──やはり、毒の方が良いのではないかと……。。母上や故宮の苦しみを味わって頂きたいし、それに頓死に見せ掛けるにはその方が良いと思うのですが……」
「……そうですわ! 確か左衛門佐さまのお知り合いで、高名な薬師(くすし)がいらっしゃるんです。その方に薬を分けて頂くというのはどうでしょう」
義成は諦めたようにため息をついた。
「分かりました。あなたにその事は任せます」
どうやら、わたしが何でも決めてしまうので、彼の方も戸惑っているようだった。
──こうやって帝の暗殺の事を考えていないと、あの恐ろしい思いが頭の中を占領してしまうのだ。──すなわち、義成がわたしと結婚した本当の理由を。
あの時彼は否定したけれど、わたしにはそうは思えない。これといった根拠はないのだけれど。
だからこそ怖いのだ。一度考えてしまうと、どうしたら良いのか分からなくなってしまう。
一体、どうすればこの疑問を解く事ができるのだろう──。
……それから二日後の夜。
戌の刻を半刻程過ぎた頃、わたしは東京極院(ひがしきょうごくいん)──左大臣家の別名──から差し回された網代車(あじろぐるま)に乗り、四条から土御門(つちみかど)へ通りを上っていった。
──その車の中で、わたしは考え込んでいた。夜に外出する事が怖い事さえも、忘れてしまう程。
それは、雪姫さまの事だった。
一体彼女は、どのような御方なのだろう。わたしに一人で来るようにと言ったのは何故なのだろう。どんな事を、話されるのだろう。
どうもわたしには考え事をすると止まらない癖があるらしく、ただひたすら、雪姫さまの事だけを考えていた。
……と、不意に車が大きく揺れて止まった。榻(しじ)が置かれ、牛が外される音がした。どうやら、東京極院に着いたらしい。
大きく息を吸い込んで、心を落ち着けた。
しばらくすると後簾(うしろすだれ)がめくられて、わたしは車を降りた。するとそこに二十を半ば程過ぎているだろうと思われる女房が現れ、
「こちらへ」
と言って案内するかのように先導して歩き出した。
さすがは左大臣のお邸はこうもあろうかというように、幾つもの渡殿を通り過ぎ、幾つもの角を曲がった。
やがて、ある部屋の前まで来ると、彼女は振り返って言った。
「ここで、お待ち下さいませ」
そして中に入っていき、御簾の向こう側にいる人──おそらく雪姫さま──に何事かを合図した。
そして戻ってくると、わたしを招いて灯台の明かりを落として暗くしてある部屋の中へといざない、御簾の前まで行った。
すると彼女は目の前の簾を巻き始めた。それが終わると、密かに退出していった。
──その一段高い御座には、美しい、匂うような菖蒲の襲(あやめのかさね)をまとった姫が座っていた……。
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