四、対面──東京極院にて──
「若桜さま……ですわね」
不意に御座の上から声がした。その声は、鈴が微風で揺れたようにも聞こえる、涼しげな声音だった。
「はい、そうです」
「もう少し、こちらの方に」
彼女の言葉に、私は御座の方にいざり寄った。
少し芯を切ってある灯台の光の中で見る雪姫さまは、名前の通りとても儚げだった。
美しさに見とれていると、彼女は私に向かって微笑んだ。
「おめもじするのをとても楽しみにしておりましたわ、若桜さま。あなたさまの事は、いつも義成さまから聞いておりましたの」
「いつも……とは?」
私は不安になって尋ねた。雪姫さまが彼の副臥(そいぶし)の姫──ということが、今更ながらに思い出されたからだ。
不安な思いが顔に出ていたのだろう、目の前の姫はゆったりと笑まれた。それは私には到底真似出来ない、大人の笑みだった。
「……最後にお逢いしたのは三年前の事ですわ。若桜さまに出逢われてからしばらくの間は、今上の事をお恨みしていたことが嘘のように、晴々となさっておいででしたけど……、半年程経ったある日、急に沈んだお顔でこちらにいらっしゃいましたの」
あの出逢いから半年後といえば……。
「わたしの父上が亡くなった日の事ですか?」
「ええ。義成さまはこうおっしゃられましたわ。『今日、式部卿宮が宮中で頓死なされた。あの姫はどれほど悲しんでおられるのだろう。きっとまた父帝が殺めさせたのだろう』と。ですからわたくし『あなたさまはどういたしますの? あの姫さまにその事をおっしゃいますの?』とお聞きしましたの」
「それであの方はどう答えましたの?」
「確か『そのような事は言わない、言えるわけがない。そのような事を言ってもどうなるとも思えない。しかし……』そうおっしゃって黙り込んでしまわれたんですけれど……」
「でも、今の彼はそう考えているようには思えないんです。わたしに父上の死の真相を打ち明け、暗殺の協力を求める彼が、本当にわたしを愛しいと思っているのかどうか……わたしにはその事さえも分からないのです」
心の中を吐露するように、わたしは彼女に打ち明けていた。
……やはりわたしには、義成の心が分からない。あの人は本当に、わたしを愛してくれているのだろうか?
──結婚してから幾度も考えた疑問が身体中を支配して、心は不安で埋め尽くされていた。
と、雪姫さまが御座から降り、目の前に座って言った。
「若桜さま、あなたの心は痛い程分かりますわ。わたくしも、若桜さまのように悩んだものです。相手がどれほど自分を愛してくれているのかが分からなくなり、不安で眠れなくなる日々が幾日も続いたのです」
はっとして彼女の瞳を見ると、儚げに微笑まれた。
「けれども、それは時が経てば自然に分かってくるものですわ。──実は若桜さまだけをここにお招きしたのには、あなたさまだけにお話ししたい事があったからなのです。殿方にお聞かせしてもあまり良いお話ではありませんし」
そう言うと、彼女は遠くを見つめるような瞳になった。自分の辿ってきた道を確かめるかのように……。
「聞いて頂けまして?わたくしの恋物語を……」
わたしは頷いて、彼女の次の言葉を待った──。
「わたくし、昔は身体が弱く病がちでしたの。両親はそんなわたくしをお案じになって、宇治にある別邸の方で十五歳になるまで過ごしておりましたの。確か……、わたくしが十二歳の夏になったばかりの事だと思うのですが──、その日はとても気分が良かったので、庭で遊んでいたのですわ。花摘みなどして……。すると、車宿の方で人の声や牛車の音がするのです。わたくしその頃は……とてもおてんばな姫でしたので、急いで車宿に駆けて行こうとしたんですの。その途端、急に袖を後ろに引かれたので振り向くと、美しい公達が微笑んでおられましたの」
わたしの頭の中で物語が広がっていた。色鮮やかな花を腕に抱えた美しい姫が、公達に袖を掴まれ驚いて振り返った姿が。
「その御方はこうおっしゃいましたの。『あなたは雪姫さまですね。わたしは将親(まさちか)と申します。実は今日から五日程、こちらに方違えさせて頂きます。よろしくお願いします』そう言われて微笑まれた瞬間、急に恥ずかしくなったんですの。このような御方と几帳もなくお話ししている事が──。わたくし慌てて自分の対に戻りましたわ」
「あの……、将親さまとは一体どのような御方なのでしょうか?何やら先程からお話を聞いていると、御身分のある方のような気がしてならないのですけれど」
その『将親さま』という御方の事が気になったので、彼女に尋ねてみた。すると彼女は言いにくそうに下を向き、しばらくして小声で言った。
「その時は東宮さま、今は今上としておられる御方ですわ……」
「えっ、帝なのですか? 雪姫さまが恋なさった方というのは」
わたしはとても驚き、そして疑問を覚えた。
何度か義成の話を聞いていた限りでは、雪姫さまは帝を憎んでいるような感じだったのだが。何故、恋した相手をにくんでいるのだろう?
「何故……」と問い掛けようとしたわたしを、彼女は目で制した。その瞳はこう言っているように思えた。
「話を聞いているうちに、分かりますわ」と。
「──将親さまは方違えの間、わたくしにとても優しくして下さいましたの。その頃は、もう姉さまが東宮妃として入内していて、今の東宮さまももう八歳におなりでしたわ。けれども、いつの間にか惹かれていたのですわ。姉の夫と知っていても。でも、わたくしがその心に気付いたのは、彼が今上として即位した後ですけれど」
そこまで聞いて、深いため息がもれ出た。
雪姫さまは、更に言葉を重ねていく。
「でも、話はまだ終わりませんの。そう……六年前の秋の事ですわ。わたくし、十二歳の時の想いを引きずったまま過ごしていましたの。その時、承香殿女御となっていた姉さまが後宮に遊びに来ないかと誘って下さったのですわ。あの御方に一目逢いたい、お話したい、その一心でわたくしは後宮に行きました。けれどいざ行ってみると神嘗祭(かんなめさい)で、退屈な姉さまがわたくしを呼んだだけでしたの。お逢いできない事が分かって気を落としたのですけれど、気分を取り直して姉さまのお相手をして、次の日には退出、という日の夜の事でしたわ。夜中に寝ていた部屋の渡殿の辺りで人の気配がして、起きてその方へ行ってみると、そこに公達らしき姿があったのです。慌てて声を出して女房を呼ぼうとすると、その方はわたくしの口を塞いで言ったのですわ。『心配する事はない。わたしですよ』と」
「そ、それは……!?」
「ええ、将親さまでしたわ。その声を聞いて、わたくしは嬉しくて声が出なかったんですの。すると将親……、いえ帝はこう言われたのですわ。『今宵一夜、夢を見させて頂けませぬか?』わたくし、さすがにいけない事だと思って首を横に振りましたの。けれども帝は無理矢理にわたくしを……」
わたしは、声が出なかった。というより、声が出せなかった。ただ、雪姫さまのお顔を凝視する事しか、できなかった。
雪姫さまは、そんなわたしを見つめがら話を続けた。
「その事があってから、わたくしは帝を憎もうとしたのですわ。けれども、憎もうとすればするほど、他の感情が心の奥底から湧きあがってくるのです。愛、という感情が……。そこで気付いたのです。人を愛してしまうと、その人以上に愛せる人が現れない限り、愛という想いは自分自身では小さくする事はできないのです。大きくする事はできても……。初めは小さな芽のような愛はいつの間にか大きな木のようになってしまうのです。そして、いつまでも消えないのですわ」
……わたしは、黙って聞いていた。
雪姫さまの悲しみ、寂しさ、そして未だに溢れている帝への愛、そういった想いが全身から感じ取れる程に表れていたからだろう。
──そしてわたしは雪姫さまの言葉を聞きながら、三年前の自分の気持ちと、今の気持ちを比べてみた。
そして、ある事に気が付いた。
わたしはもしかして、自分の心だけしか見つめていなかったのではないのだろうか?勝手に彼の心まで想像して、本当の彼の心を知ろうとしなかったのでは……。
わたしは今すぐ彼の所に行って、本当の義成の気持ちを確かめたい、という衝動に駆られた。
ふと、雪姫さまの方を見た。
彼女は、微笑んでいた。その顔はこう言っているように見えた。
(あなたのなさりたいことを、おやりになって。自分の気持ちに素直になって)
わたしは静かに彼女に頭を下げると急いで車宿の方まで走っていき、牛飼童(うしかいわらわ)に車を急いでやるように言うと、中に入って膝を抱えて座り込んだ。
──どうしてわたしは、彼の心を見ようとしなかったのだろう?
自分の情けなさに、涙が出た。
彼は何度も否定していたと言うのに、わたしは疑ってばかりいて……。
だから自分の邸に着くと、牛が外されるのももどかしく、彼が寝ているはずの対に走っていき、驚いて声も出せずにいる義成にしっかりと抱きついた。
彼は暫く何言えずにいた後、やっと声を出した。
「ど……うしたのだ?」
わたしは言った。
「許して、許して、義成。わたしはあなたの心を疑っていたんですの。あなたがわたしと結婚したのは暗殺に協力させるため、それだけだとずっと思っていたのですわ……! あなたはちゃんと『違う』とおっしゃって下さっていたのに……」
それ以上言葉が出ず、彼の胸に顔を埋めた。
今まで胸の中で疼いていた様々な疑問が、すぅっと溶けていくのが感じられた。
彼の事を信じる、それだけで全てが違ってみえた。
義成はそんなわたしの頭をそっと、そっと撫でてくれた。そして、独り言のように呟いた。
「わたしも、あなたに謝らなければ……」
「えっ?」
その言葉に驚いて顔を上げて義成を見つめると、彼はわたしの手を握りしめてきた。
「わたしも、あなたがわたしに抱いていた疑いと、同じような思いを抱いていたのですよ」
わたしはますます驚き、彼を凝視してしまった。義成も同じように、わたしの心を疑っていたというのだろうか。
「時折あなたの見せる表情や、一人で色々な事を決めてしまう所がとても気になってしまい……、わたしと結婚したのには理由があるのではないか、帝への憎しみでわたしへの想いをなくしてしまったのではないかと、毎日のように気に掛かっていたのです」
「そんな事ありませんわ! わたしはあなたを愛しています。ずっと、ずっ……」
最後までこの言葉を言う事はできなかった。義成がわたしの唇に、自分の唇を押し当てたから。
……とても驚いたけれど、やがてわたしは目を閉じて、もう一度きつく彼を抱きしめた。しばらくして、そっと唇が離れると、私は囁いた。
「わたしたち、相手の心が分からなくて同じような想いをしたのですもの。きっとこれからは、二人で助けあっていけますわ。愛しあい、信頼しあえば、きっと……」
そしてわたしたちは、もう一度唇を重ね合わせた──。 |