それから三月程経った神無月も半ば、わたしは急に吐き気をもよおして、寝込んでしまった。
 慌てて義成が、医師を呼んできた。
 ……文月のあの日以来、わたしたちはあまり帝の事を考えないようにしてきた。あの後の話し合いで、わたしたちが事を起こすのが霜月の新嘗祭(にいなめさい)の後の豊明節会(とよのあかりのせちえ)ということに決まっていたから。
 けれどわたしは彼が寝た後、いつも帝の事を考えてしまい、眠りにつくのは丑の刻を過ぎていた。だからわたしは、過労のせいで倒れたと思ったのだ。
 しかし、診察しおえた医師は、義成を隣の塗籠(ぬりごめ)に連れていって、何やら話し込んでいる。一体、どうしたのだろう? 気になって仕方なかったが、急に睡魔が襲ってきて、何も考えられなくなった……。
『──ねえ、お母さま』
 不意に声を掛けられ振り向いたわたしの目に、三歳くらいの水干(すいかん)姿の童(わらわ)の姿が見えた。と、同時に、
『なあに、どういたしましたの?』とわたしの口が勝手に動いていた。どうやらここは夢の中で、わたしは誰かの中に入り込んでいるらしい。
『お母さま、遊びましょ』
 そう言うと、その子は走り出していた──。
「──さま、姉さま」
 ふと、耳慣れた声がして、わたしは目を開けた。すると枕元で香住と薔子が、心配そうにわたしを覗き込んでいた。几帳の反対側にはどうやら左衛門佐さまもいるらしかった。どうやら、わざわざお見舞いに来てくれたらしい。
 途端、薔子が来月生み月だと言う事に思い当たった。
 わたしは慌てて起き上がり、「薔子、どうしてこんな大変な時期に? わざわざお見舞いなんて来なくてもいいのに」と、大きなお腹をしている彼女に向かって、注意をしてしまった。
 すると香住が無理矢理わたしの肩を押さえ寝かしつけながら、話し掛けてきた。
「若桜さま、今日はゆっくり寝て下さいまし。医師が過労だとおっしゃっていたのですわ。全く、ただでさえ今は普通のお身体ではありませんのに……」
「それはどういう……?」
「姉さま」
 わたしの疑問を遮って薔子が少し呆れたような声で言った。
「姉さま、わたくしでさえ、自分の身体の変調にはすぐ気付きましたわ。姉さまが吐き気を覚えたのは、悪阻(つわり)が原因ですわ。身ごもっているんですのよ」
「え……?」
 わたしが、身ごもっている……? 本当に……?
 信じられないながらも、そうっと自分のお腹を撫でてみる。その途端、涙が出た。
 義成との愛の証が、わたしの身体の中で育っている……。
 わたしはいつまでも泣いていていた。後から現れた義成にしっかりと肩を抱いてもらうまで。
 ──その日の夕刻。薔子たちが帰ってしまった後、わたしは一人簀子縁に立って、考えを巡らせていた。
 それは、義成の事だった。
 わたしと薔子が子供の話をしている時に、彼は浮かない顔をしていたのだ。それと、時折わたしを見つめている時の瞳の寂しさ──。一体、あの瞳の意味しているものは……。
 と。不意に肩が叩かれ、振り向くと後ろで義成が微笑んでいた。けれどもその笑みはぎこちなく、また悲しく見え、わたしは疑問を覚えた。
「義成、どうしたの? 嬉しい事のはずなのに、先刻から悲しそうな顔をなさって」
「……分かっていましたか。実はあなたに話したい事が……」
「何の事です?」
「暗殺の事です」
 ──わたしは少し身体を硬くして、次の言葉を待った。
「あなたに話した事を、雪姫さまにお話しして了承を得ました。あなたは豊明節会に招かれている雪姫さまの女房として、後宮に入って下さい。けれど、わたしは最後の時でないと、あなたの傍に行く事ができないのです」
「それでは、わたしが一人で帝を殺めなくてはならないのですか?」
 わたしは不安に駆られていた。もし、わたしが帝を殺める事ができなかったら……、誰かに見咎められたりしたら……。そう考えた途端、心細くなったのだ。
「義成、もし誰かに見咎められたり、帝や他の方にに事が露見した場合、わたしたちはどうすればいいんですの?」
 わたしは、心の中でいつも渦いていた疑問を訴えた。つい不安になってしまって、夜眠れなくなってしまう程の不安を。
 ──すると。彼は先程から何度か見せていた寂しそうな瞳をした。そうして口を開きかけてはまた閉じて、というような事を何度か繰り返していたが、やがて言いにくそうな小声で言った。
「多分、罪に問われるだろうと思います。しかしわたしとしては、役人に捕らわれて民衆の前で命を散らしたくは……ありません」
「では……自ら、死を?」
 わたしの喉は、いつの間にか渇いていた。声を出そうとしても一言も発する事ができず、無理矢理喉を湿らせて、ようよう、声を出した。
 彼は、その言葉に小さく首を、縦に振った。
「では、先程から寂しそうな顔をしていたのは、そういう理由ですの? では、このお腹の子はどうなりますの?」
 わたしはいつの間にか、大声で詰め寄っていた。
「分かっています。わたしだって自分の子を殺めたいとは思っていません。でも……」
「ごめんなさい。事を起こすのが来月なら、この子は生まれてきていませんもの。それに……、もし生まれていたとしても、罪人の子として後ろ指を差されてしまいますものね。それならば、わたしのお腹の中で死んだ方が、幸せなのかも……」
「もうやめましょう、そんな事を考えるのは。大丈夫です。きっとうまくいくでしょうから」
 不意に義成がわたしの心を遮って言うと、わたしの頭を自分の胸の方へと抱き寄せた。
 途端、涙がこぼれ落ちた。
 口では言える事でも、感情がついていかないらしく、わたしは流すままに涙を流させていた。
 ……今は、こうして二人で抱き合っていたい。
 僅かの希望を胸に抱きながら、わたしは願った。
 ──どうかこの事が、誰にも気付かれずに終わりますように──と。
 月の光が、わたしたちを優しく照らしていた──。



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