──そして、その日がやってきた。
 堅苦しい儀式が終わって宴が始まった頃、わたしは与えられた部屋で義成を待っていた。彼と最後の打ち合わせをすることになっていたから。
 わたしたちのこれからの行動全てが今後の運命を決めてしまう、そう考えた途端、震えが来た。
 それが恐怖から来るものなのか、はたまた武者震いなのかは分からない。ただただ、いつまでも震えていた。しばらくして来た義成に声を掛けられるまで。
「どうしました、若桜」
 その声で震えが止まった。
「いえ、何でもありませんわ」
 答えると、彼は少し安心したような表情でわたしの前に座った。
「今から約半刻後、ここを帝付きの女房が通ります。あなたはその人たちに紛れ込んで紫宸殿に向かって下さい。そして帝が夜の御殿(おとど)──帝の寝室の事です──に入った後……」
「……隙を見てそこに入り込み──帝を誘惑して、毒を混入した白湯か御酒を飲ませる。そして、誰も来ないようにしていた義成が来て、帝の亡骸に太刀を突き立てる……こういう手筈、でしたわよね?」
 義成の言葉に続けて言うと、彼はその通り、と頷いた。
「必ず、やり遂げてみせますわ。大丈夫です」
 その言葉に、彼は微笑んだ。わたしも、微笑み返す。
「あなたの笑顔を見ることができて、正直、安心しました。お気を付けてください」
「……義成も……」
 そう言って、彼を見つめた。心の中の不安や恐怖、それらが義成の顔を見つめていくことで薄らいでいく、そんな気がした。いや、実際薄らいでいった。
 彼もしばらくわたしを見つめていたが、やがてふっと視線を外すと、静かに妻戸を押して出ていった……。
 わたしはそこでしばらく座っていた。半刻が過ぎるのをじっと待っていた。その時ほど、時が過ぎるのが遅いと思ったことはなかった。
 ──やがてさやさやと衣擦れの音が聞こえてきたので、妻戸を細く開けてみると、一目で帝付きと分かる華やかな女房装束を身に着けた人たちが歩いていくのが見えた。静かに妻戸から出て、女房たちの後ろにつく。そのまま、歩いていった。
 しばらく歩いてふと庭の方に視線を向けると、衛士たちに何かを振舞っている人の姿が目に留まった。きっと藤香の指図だろう。そしてあの中には薬が入っているのだ。そのうち寝入ってしまうような薬が。
 そんな光景を目の端に移しながらなおも女房たちの後をついていくと、ざわざわと声がしてきて、舞姫たちが舞っているのを見ながら御酒を飲んでいる公達がいるのが見えてきた。どうやら、紫宸殿に着いたらしい。
 女房たちは、奥の御簾の後ろに控え、しばらくそのままだった。
 やがて、宴も中盤に差しかかった頃。
「そろそろ、眠るとするか」
 御簾の奥から、低い声がした。
「父上、もう眠られるのですか?」
 低い声の人物を気遣うように、誰かが言った。きっと東宮さまだろう。そして眠ると言った人物こそ、帝に違いない。
「ああ、すっかり酔ってしまった。東宮、そなたはここに残って皆に私がいない事を悟られないようにしてくれまいか?」
「かしこまりました」
 東宮さまの言葉が終わると同時に、二人の女房が御簾の中に入り、帝を両脇から支え、静かに退出していった。残った女房たちも立ち上がり帝たちの後に従う。わたしもならってついていった。
 彼女たちがやがて一つの部屋に入っていくのを見て、傍らの柱の陰に隠れた。
 どのくらい、そこにそうしていただろうか。やがて「ゆっくりとお夜りあそばしてくださいませ」と言う女房の声で我に返った。
 彼女たちの足音がすっかり遠ざかってしまった後、静かに先程の部屋の妻戸を開けて忍び込んだ。そっと耳を欹てるが、物音一つしない。もう帝は眠ってしまったのだろうか?
 音を立てないように静かに進み、奥に立ててあった几帳の裏を覗き込んだ。
 案の定、帝は眠っていた。
 わたしはその寝顔をしばらく、見つめていた。親子だから当たり前なのだろうが、帝の顔は驚くほど義成に似ていた。
 ──帝には、義成に対しての親の情、というものがなかったのだろうか? 自分と典侍さまとの愛の証し、そして生のあるものを殺めようとするなんて……。
 けれども、もしかしてわたしたちはそんな帝と同じ事をしようとしているのではないのだろうか? いくら親の仇(かたき)とはいえ、一人の人間を殺めようとしている──。
 彼と同じ過ちを犯しているのではないか──その思いは、実は心の奥底で考えていたことだった。いつも考えまいとしていたことだった。けれど今、帝の寝顔を見つめた時に、一気にそれが吹き出してきたのだ。
 本当に、わたしに彼を殺めることはできるのか──。
 考えた途端涙が浮かんできそうになって、慌てて上を向いて抑えた。そしてその思いを断ち切るかのように立ち上がった。
 またそっと歩いて、御酒やら白湯やらが置いてある所に近付く。懐から薔子たちに貰った薬を取り出して御酒に入れようとした、途端。
「お待ちになって」
 脇から手が伸びて、わたしの腕を押さえた。
「……誰?」
 小声で誰何(すいか)すると、後ろで人の気配がした。振り向いたわたしの目に、雪姫さまの姿が映った。
「……どうして雪姫さまが……?」
 彼女は、微笑んだ。
「──申し訳ありません、若桜さま。口を挟まない、そう申しましたのに……。けれども、耐えられなかったのですわ。例え若桜さまにでも、帝を殺めてほしくなかったのですわ。気付いたらここにいて……。お願いですその役目、わたくしにやらせていただけませんか? この想いに決着をつけるために」
 わたしはじっと彼女の瞳を凝視した。明らかに、嫉妬していた。けれども何かを決意した瞳でもあった。帝を殺めるのは自分だけ──そんな瞳を。
 一息ついて、言う。
「分かりましたわ。けれどもこの毒を入れるのはわたしにさせて下さいませ。そうでないと何のためにここに来たのか──ということになってしまいますから」
 張り詰めていた瞳をふっと緩め、彼女は安堵したように頷いた。
 わたしはそっと白湯に、薬を入れる。そしてそれを雪姫さまに手渡した。彼女はわたしに向かい目で合図をして、几帳の裏に行った。わたしは几帳の隙間からそっと覗き込む。
「帝、起きてくださいまし。帝……?」
 雪姫さまは静かに帝を揺さぶった。何度かそうしているうちに、やがて帝が小さく身動(みじろ)ぎした。
「……う〜ん……」
 小さく呻いた後、目を開けた。その瞳が、大きく見開かれる。雪姫さまの存在にとても驚いたようだった。
「……雪姫! 何故このような所に?」
「──申し訳ありません。わたくし承香殿女御さまに呼ばれて後宮に来ていたのですけれど、先程帝をお見かけした途端、どうしても帝にお逢いしたくなってしまいまして……一夜のお情けでもいい、そんな想いでいた所、気付かないうちにここまで来てしまいました。ですから、是非……」
 彼女の言葉が終わるか終わらないうちに、帝はそっと目の前の姫を抱き締め、夜具の上に横たわる。雪姫さまはされるがままになっていた。
「帝……?」
 やがて、帝の下から雪姫さまの声が聞こえた。
「……どうした?」
「咽喉(のど)が渇いておいでなのではありませんか?」
「ああ、そう言えば」
「そう思いまして、ここに白湯をお持ち致してありますわ。お飲みになって下さいませ」
「そうしよう」
 彼女の唐突とも言える言葉に何の疑問も持たなかったようで、帝は答えると、雪姫さまの差し出した器に口をつけ、一気に飲み干してしまった。
「あ……」
 雪姫さまが息を飲むのと、帝が苦しそうに首を押さえたのはほぼ同時だった。
「ぐっ……!」
 彼の口から、赤い液体が滴り落ちる。それを確認した雪姫さまは、そっとわたしを手招きで呼び寄せた。
「ゆ……雪姫、何故……?」
 その問いに、わたしが答えた。
「帝、あなたは二つの罪を犯しました。一つは、愛していたはずの典侍さまを殺めてしまったこと。もう一つは、実の弟の命さえその手にかけたこと」
「……そなたは……?」
「式部卿宮女(しきぶきょうのみやのむすめ)、そして、源義成(みなもとのよしなりのしつ)です」
 答えた言葉を雪姫さまが受け継いだ。
「若桜さま、義成さまの言うことはもっともです。あなたは殺められなくてはならないのです。でも……」
 ちらりと、こちらに視線を向けた。
「……でも、帝一人では逝かせませんわ。わたくしも共に参ります」
 決意した声で言いきると、持っていた白湯を一気に自分の口に流し込んだ。
 座り込んでいた帝を抱き締め、ゆっくりと倒れ込む。
 わたしはただ呆然と見ているだけだった。やがて我に返って彼女に近付いた。
「どうして、どうして雪姫さまが……!」
 悲鳴に近い問いを発しながら、彼女を揺さぶる。
「……いいのです。だってわたくし……ずっとこうしたかったのです……もの。きっと、若桜さまたちが……帝を殺める、と言った……その時から。だから……お気に、なさらな……」
 不意に、彼女の口から鮮やかな朱の色がこぼれ出す。 そのまま、彼女はこときれた。とうに死んでしまっている帝を抱き締めたまま。
 凄絶なこの光景を改めて見渡した時、もう一度、あの疑問が浮かび上がった。
 ──もしかしたら、帝とわたしたちは同じ罪を犯しているのではないのだろうか──。
 違うと、否定しきることはできなかった。思わず顔を覆ってしまう。見たくなかった。帝とわたしたちが同じだと思わせるこの場所から、一刻も早く逃げ出したかった。
 顔を覆ったまま二人が見えない所まで来た時、妻戸が開いて義成が入ってきた。
「義成──!」
 そのまま、彼に抱きついた。
「どうしました、何か、あったのですか?」
「帝を殺めることはできましたわ。でも……!」
 ──ここで起こったこと全てを、彼に話した。すると義成は一言も言わず、几帳の裏に回り込み、やがて雪姫さまの亡骸を抱いて戻ってきた。
「どうするんですの?」
「ここに置いておくことはできないでしょう。彼女の部屋の方にでも置いてこなければ。そうしなければ全ての罪を彼女が被ってしまうことになりますから……」
 静かに言って、踵(きびす)を返した。後をついて行こうと私も身体の向きを変えた途端、義成の頭越しに人の姿を認め、慄然とした。
 暗がりの中 、その人物はゆっくりと歩を進めてくる。一つだけ灯してあった灯台の明かりの元、徐々にその姿がはっきりとしてきた。
「東宮さま──!」
 どうして彼が、ここにいるのだろうか? もしかして全てを知られてしまったのでは──。
 それに、義成は雪姫さまを抱えている。どう考えても、いい方向に考えてくださる筈がない。
 一体、どうすれば……。
 ──ただただ、わたしたちは向かい合ったまま立ち尽くしていた──。

 

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