六、逃亡──宵桜のように──

 

 わたしたちと東宮さまは、一言も話さずに長い間見つめあっていた。その永遠とも思える沈黙を破って、東宮さまが問い掛けてきた。
「何故、あなた方がこのような所にいらっしゃるのですか?」
「東宮、あなたこそどうしてここにいらっしゃるのですか?」
 義成がわたしを背中に庇いながら逆に問い返した。その様子に東宮さまは軽い吐息を漏らして。
「兄上が思い詰めた表情で宴を抜け出す所が目に入ったのです。その前に一度見掛けたことのある女人が帝付きの女房になりすましていた所も見ていたので、不審に思って兄上の後をつけたのです。そして、あなた方の話を聞いてしまった」
 そして、わたしたちを見つめてなおも言った。
「しかし、何故あなた方が父上を殺めなければならないのですか?」
「東宮さま、その理由はご存知ではありませんの?」
 驚いて、逆に問い返してしまった。けれども考えてみれば当たり前なのかもしれない。帝が東宮さまに自分の罪を告白する必要はない。藤香だって、秘密を漏らしたりするような子ではない。ましてや、わたしと雪姫さまとの会話は義成の傍にいたのだから聞こえるわけがないし、その後の義成との会話では、この部屋で起こった出来事しか話していない。知り得る機会など、全くないのだ。
 教えることは、ためらわれた。どうすればいいのか分からず、背中越しに義成を見る。わたしの視線に答えて、義成が口を開いた。
「東宮、あなたは何もご存知ないのですね。父帝がわたしの母を殺めたことも、それを知った故式部卿宮をもその手にかけたことも」
 彼の口から出た言葉は東宮さまの心に多大な衝撃を与えたらしく、東宮さまは言葉を失ってしまった。視線をこちらに向けわたしに問い掛けてきた。それは真実なのかと。
 やがてその視線がふっとそらされた。明後日の方向を向いたまま、東宮さまは言の葉を紡いだ。
「……どうやら本当のようですね。けれどもわたしは東宮として、この罪を見逃すわけにはいかないのです。帝を傾けた罪は重いですから。本来なら、すぐに謀叛人として捕らえなければいけないのですが、わたしは明朝に、あなた方のことを検非違使(けびいし)に報告します。その間に遠くに逃げおおせると思います。──父上の罪の償いと、そう思って下さい」
「──ありがとうございます」
 義成は深く頭を下げると、歩き出した。わたしも、後に続く。
 東宮さまとすれ違う時、義成が言った。
「彼女は……雪姫さまの事は不問にして下さい。彼女の罪まで咎めることは……」
 東宮さまは「分かりました」と頷いた。
 それが合図だったかのように、わたしたちは走り始めていた──。

 承香殿のの庭先に、そっと雪姫さまの体を横たえた。口から出ていた血をそっと拭う。そうすれば外傷もないから、後に彼女を見つけたものはきっと頓死(とんし)したものだと思ってくれるだろう。 
 彼女の前でわたしたちは静かに手を合わせた。彼女をここまで追い詰めたのはわたしたちなのだ。わたしたちにできることはこれくらいしかないのだ。
 謝罪の意味を込めて、手を合わせた。
 そしてわたしたちは足早に大内裏を抜け、やがて一つの門の前に辿り着いた。門の前には馬が一頭括りつけられていた。どうやら義成が誰かに用意させたものらしく、彼は素早く馬の上に乗り、わたしを引っ張り上げて乗せると、馬の脇腹を蹴った。
 嘶いて走り始めたための激しい振動で舌を噛みそうになりながら、わたしは尋ねた。
「よ、義成、どこへ行くんですの?」
「近江の湖だ」
 一言だけ、返事が返ってきた。わたしはそれ以上何も言わず、振り落とされまいと彼にしがみついていいた。
 長い道のりの間、馬の背に揺られながら先ほどの光景を思い浮かべた。東宮さまと向かい合った時のことを。
 ──あの時、義成が東宮さまの事を何らかの形で殺めなかったことが今更ながら思い出され、驚きを禁じ得なかった。
 もし、そうしていたのならば、この真実を知る者は身内以外誰一人いなくなるというのに。
 もしかしたら、彼もわたしと同じような疑問を心に抱いていたのだろうか。人を殺めることによって仇をとることは、間違いなのではないか、と。
 どんなに悪人だったとしても、殺められた人がいなくなれば悲しむ人、殺めた者を憎む人は必ずいる。そして結局、堂々巡りになってしまうのだ。だからあえて、彼は自分の犯した罪を東宮さまに隠さなかったのではないだろうか。
 そう考えると幾らか心が和んだ。そう考えているのがわたしだけではなかったことに、安堵の念を覚えた。
 ……しがみついている義成の体に、更に強く抱きついた。
 彼のことが、ただ、愛おしかった。
 ──そのまましばらく馬に揺られ、やがて古びた小さな邸の前に着いた。義成は馬から降り、わたしのことを降ろさずに一人で邸の中へ入っていってしまったので、ゆっくりと自分で馬から降りて、後を追った。
 邸の中は外の古さに比べると小奇麗にまとめられていて、少し驚いた。その表情を読み取ったのか、彼が笑いながら教えてくれる。
「ここはわたしの所縁の別荘なのです。つい最近までは荒れ果てていたけれど、香住たちに頼んで使えるようにしておいたのです。……何かがあった時のために」
 その義成の言葉に、忘れていたことを思い出した。
「そういえば、あの邸にいた者たちはどうしたのですか?」
「事が露見してすぐ後に、使いの者を邸に走らせました。左衛門佐どののお邸にも。彼の邸でうちに使えていた者を働かせてくれるように取りはからっておいたのです」
 わたしは彼の行動の手際良さに、感心せずにはいられなかった。もしわたし一人だったら、沢山の人に迷惑をかけていたに違いない。義成の口から香住の名前が出るまで、すっかり彼女達の事は頭から抜け落ちていたのだから。
 ……そんな自分のいたらなさを少し情けなく思いつつ、わたしは簀子縁ににじり寄り、空を見上げた。そこには二十日あまりの月が光を滲ませながら輝いていた。
 その光を見つめていると、ふと、妹たちや香住や邸の者たちなど……今まで出逢った人々の顔が、頭の中で浮かんでは消えていった。
 いつの間にか横に来ていた義成の顔を見た途端、三年前の彼の姿も頭に浮かんできた。と、同時に、その時のわたしの姿も浮かんでくる。
 ──あの頃のわたしは、幸せしか知らなかった。けれども、義成と出逢ってから四年近くの間に、様々な想いを知ったような気がする。
 喜びや悲しみ、苦しさや嫉妬。──そうして、人を愛すること。
 そういう思いを知って、だからこそわたしは、前とは全く違った意味で幸せだったのかもしれない。
 多分人は、一つ一つ新しい想いを知るたびに幸せになっていくのではないのだろうか。例え、それが悲しみや嫉妬だったとしても幸せになれると思う。
 わたしが思うに、愛というものの延長線上に幸せというものはあるのではないのだろうか。愛の上に、喜び、悲しみ、怒り、嫉妬──そういうものがあって、それが幸せへと続いていっているように思えるのだ。
 だから、わたしたちは幸せだったのだろう。あの時から、ずっと……。

 

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